かつてここには、ひと株の老いた桜の樹が立っていた。とある男と女にとっての、想い出の樹だった。 男は百姓家の三男坊だった。東京の大学へ行かせてもよいが、医学部以外はまかりならんと、親から申し渡された。父親にとって息子が東京で一人前になるとは、医者になることだった。昔はそんな親が珍しくもなかった。 女も百姓家の出で、男兄弟四人に挟まれた一人娘だった。女学校を出てすぐに、男に嫁した。戦時中のこととて、男が近ぢか出征することになり、独身のままでは可哀相だとの計らいから、親と親戚とが勝手に決めた結婚だった。新婚生活などはなかった。敗戦後、復員帰郷する男を駅へ迎えに出た女は、痩せこけた兵隊服姿の男たちの群…