令制国のひとつ。現在の広島県東部の備後地方に相当する。「きびのみちのしりつくに」とも呼ばれた。
元は吉備国であったが、備前国・備中国・備後国の三国に分国された。そのため現在は行政では広島県に属するが、岡山県との文化的類似性が見られ、歴史的・経済的にも繋がりが強い。
国内に深津郡・安那郡・芦田郡・品治郡・神石郡・奴可郡・甲奴郡・世羅郡・沼隈郡・御調郡・三次郡・三谷郡・三上郡・恵蘇郡の14郡があり、国衙が芦田郡内の現・府中市中心部にあったとされる。
御調八幡宮(三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。 御調八幡宮の神宝 弥生時代中期の銅戈 参考文献 御調八幡宮の神宝 御調八幡宮で神宝「天逆鉾」が収蔵されている木箱の蓋には、以下のように記されている。 天逆鉾 寶永四丁亥天三月吉日/御調郡宮内村/八幡宮寶物之内/神宮寺現住宥仙代造焉 宝永四年(1707)にはすでに「天逆鉾」と呼ばれて神社の宝物となっていたことが分かる。また寛政四年(1792)の「御調郡宮内村指出帳」には「ほこのうねト申名所 八幡宮宝物ほこ、此所へふり申ニ付、ほ…
高倉上皇が厳島にお着きになったのは、 三月二十六日、 清盛入道相国が最も寵愛した内侍の家が仮御所となり、 なか二日の滞在中には、 読経の会と舞楽がにぎやかに行なわれた。 満願の日、 導師三井寺の公顕《こうげん》僧正は高座にのぼり、 鐘を鳴らして表白を声高らかに読みあげていわく、 「九重の都を出でられ、八重の潮路をかきわけて、 ここまでお出でになられた陛下の御心は かたじけない極みである」 この神前に捧げられた言葉には、 上皇を始め諸臣みな感激した。 そのあとで上皇は 末社にいたるまで隈なく御幸になり、 また厳島の座主尊永を 法眼《ほうげん》の位に上らせるなど、 神主たちの位階昇進を行なわれたが…
備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。 舞楽太刀 五阿弥派 参考文献 舞楽太刀 毛抜形太刀は、柄に毛抜形の透かしが施されることに由来する。平安中期頃に登場した太刀の一様式であり、日本刀の原型と考えられている。柄(鉄製)と刀身とが接合され、一体となるよう作られている(共鉄造り)。 吉備津神社には「備州尾道五阿弥長行」の銘をもつ2口と、「正光」銘の2口、計4口の毛抜形太刀がある。いずれも平安期の毛抜形太刀の模古作と伝わる。『福山志料』巻…
備後一宮吉備津宮の門前町。吉備津宮は12世紀には史料にみえ、中世を通じて備後国内で広く信仰を集めた。江戸初期の境内図には、門前に町場が形成され、大工や鍛冶などの職人が住んでいたことが描かれている。 備後一宮吉備津宮 古図に描かれた町屋 参考文献 備後一宮吉備津宮 吉備津宮の文献上の初見は鳥羽院政期の久安四年(1148)二月で、京都祇園社の法華八講会の料所として備後国吉備津宮を寄付したことがみえる(「八坂神社記録」)。 永万元年(1165)六月付の「神祇官年貢進納諸写注文写」によると、備後国では吉備津宮のみが神祇官への年貢進上を命じられている(「宮内庁書陵部蔵永万文書」)。同注文写にみえる諸社は…
備後国の港町三原で造られた酒。17世紀初頭からその名が見える。三原では福島正則入部後に酒造業が発達したとみられ、その後全国屈指のブランドとなった。 三原酒の台頭 三原の酒造り 参考文献 三原酒の台頭 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。備後地域で名を知られた酒に尾道酒があり、慶長四年(1599)九月に贈答品として記録にみえ(『多聞院日記』)、毛利輝元も禁裏に献じている(『御湯殿上日記』)。 kuregure.hatenablog.com その後、尾道西方の港町三原でも、その名を冠する酒があらわれる。『…
備後国の尾道およびその周辺で生産された酒。室町期以前から酒造業が盛んであったとみられ、『庭訓往来』には名産として「備後酒」がみえる。16世紀末には全国的にも知られる酒となっており、貴人の贈答品としても用いられた。 備後の酒 歌島の酒屋の訴え 尾道酒の登場 尾道商人による酒の販売 全国的な名酒 日持ちのする酒 参考文献 備後の酒 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。また『新撰類聚往来 下』*1の「備後」条には、「酒酪久保」云々とみえる。 備後国が、伝統的に酒造りが知られた地域であったことがうかがえる。そ…
沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。 沼田小早川氏庶子家・土倉氏 幕府と大内氏の対立 伊予出兵 応仁の乱 備後国馬木陣 参考文献 沼田小早川氏庶子家・土倉氏 土倉氏は、沼田小早川春平の弟・夏平を祖とする沼田小早川氏の庶子家。南北朝後期に惣領家から分出されたと考えられている。夏平が沼田庄内土倉村(三原市大和町徳良)に居住したことから、土倉氏を名乗ったと推定される。大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭職も有し、大崎下島の大条浦にも所領を得ていた。 kuregure.hatenabl…
備後南部、芦田川河口部の港町草戸を拠点とした金融業者。草戸千軒町遺跡から出土した15世紀後半の木簡にその名が見える。 草戸に送られた国衙領年貢 今倉殿の蔵? 参考文献 草戸に送られた国衙領年貢 広島県福山市の草戸千軒町遺跡の15世紀後半の遺構からは、多くの木簡が出土している。その一つに、片面に「こいよりしやうせい」、その裏面に「くしかき五(把)くさいち いまくらとのへまいる」と書かれた木簡がある。 この木簡はその形態から、荷物に添えた付札木簡と考えられる。すなわち「こい」*1という場所から送付した「正税(しょうぜい)」(国衙領からの年貢)に付けられたタグであった。裏面の内容から、送られた国衙領…
備後国南部、芦田川河口部の港町。鎌倉期に成立し、地域経済拠点としての役割を果たしながら、16世紀初頭まで存続した。なお集落の名称は時代によって「草津」、「草井地(くさいち)」、「草出(くさいつ)」、「草土(くさど)」、「草戸(くさど)」などと変遷する。本項では便宜上、「草戸」で統一する。 中世集落としての草戸の成立 草戸の町の発展と拡大 14世紀後半の停滞 室町期の繁栄 応仁・文明の乱 町の終焉 関連人物 関連交易品 参考文献 中世集落としての草戸の成立 草戸千軒町遺跡の調査によれば、集落の成立は鎌倉期の13世紀中頃とみられる。この頃になると遺跡の中央部から北部にかけて、井戸や溝、土坑などの遺…
備後国の福山湾に面した港町。中世までは蔵王山から南へ突き出た深津丘陵(深津高地)によって深い湾が形成されていたとみられる。現在の広島県福山市東深津町*1。9世紀の文献に市場の賑わいが記されており、中世においても活発な商取引があったと推定される。 古代の深津市 京都と備後をつなぐ経済拠点 毛利元康の支配 水野勝成の入部 参考文献 古代の深津市 9世紀前半に成立した『日本霊異記』下巻第27「髑髏の目の穴の笋を掲キ脱チテ、祈ひて霊しき表を示す縁」に深津市がみえる。物語の時代は宝亀九年(778)、登場人物は備後国葦田郡(広島県府中市から福山市新市町あたり)の住人。深津市は人々が正月に必要な物資を買い揃…
ホツマツタヱでは「スサノオ」を「ソサノヲ」と伝える。面白い事に姫路の書写山にはスサノオが降り立ったと言う説話があり、南麓の町の名は「曽左」(ソサ)と呼ぶ。 音的には「スサ」よりも「ソサ」の方が「書写」(ショシャ)へと違和感なく変化していきそうなもんです。 ※「書写」とは神仏習合の流れもあり、修行僧が一心に経典を書写していた、と言う話もあります。 そして東隣には広嶺山があり、廣峯神社では牛頭天王総本宮を称していたりで、この辺りはスサノオ信仰が多々残っています。 それも登山を行う私的には山に多く関係しているように思う。 それからスサノオさんの御子には「磐坂日子命」(イワサカヒコノミコト)がいて、こ…
過去に「神社めぐり」に掲載するため作成した文章です。現在ではリンク切れとなっている箇所や、すでに情報が古い部分もありますが、再取材はせず当時のまま掲載します(注記:2024.08.03) 大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI ) 小さめの敷地に鉄筋コンクリート造3階建ての社殿です。社殿そのものは3階にあり、1~2階はどうやら駐車場や社務所として利用されています。 広島市 編『広島市史』社寺誌,広島市,大正11-14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/965812 (参照 2023-02-24) この…
引用:Google Map 今回は奈良線の額田駅です。 単に石切と枚岡を先にやったんで、穴埋めに。 額田駅は近鉄の未成線、四条畷線の終点になりそうな話がありましたが、計画は真っ白に。 その辺の話はこちら→近鉄の未成線「四条畷線」と「岐阜線」計画を蒸し返すをご覧ください。 この記事の内容 額田駅は新設開業の駅だった。なぜ追加された? 額田の元ネタは人名と思われる。枚岡が近いだけの事はあった 酷道は額田駅が最寄駅。阪奈ルート最凶の暗峠の入り口 奈良線 石切>> 額田駅は新設開業の駅だった。なぜ追加された? 引用:Google Map/がんぼうずさん 額田駅は奈良線の開業時にはなく、6年後に新設開業…
解題 楢崎氏は正慶二年(1333)、備後国芦田郡久佐村地頭職を賜った宇多加賀守にはじまる。この時より、久佐村楢崎山に居住し楢崎をもって氏とした。その後、三河守豊景は毛利元就に属し、神辺の陣、筑前立花の陣に加わる。朝鮮の役にも従うが、その一族は各地に散居することになったという。 本文書は、毛利輝元とその家臣への書状が主体をなしている。 一 毛利輝元書状 ◯以下一三通、東大影写本ニヨル 彼是此者可申候、万吉重畳可申承候、恐々かしく、 (捻封ウハ書) 「 (小早川) 少輔太郎 隆景 まいる 人々 輝元」 申給へ 「書き下し文」 彼是此の者申すべく候ふ、万吉重畳申し承るべく候ふ、恐々かしく、 「解釈」…
はちみつの日 「はちみつの日」は、健康食品としてのはちみつを広く知ってもらうことを目的に、全日本はちみつ協同組合と日本養蜂はちみつ協会が1985(昭和60)年に制定しました。日付は「はち(8)みつ(3)」と読む語呂合わせに由来します。 「雑学ネタ帳」より引用します。 ミツバチが花の蜜を蜂蜜に変える方法 蜜蜂(ミツバチ)が集めた花の蜜(みつ)が蜂蜜(はちみつ)と思われがちだが、巣の中で加工・貯蔵されたものが蜂蜜である。 ミツバチがどのようにして花の蜜を蜂蜜に変えるのか、その過程を確認してみる。まず、ミツバチは花の蜜を採集し、その花の蜜を胃の前部にある蜜胃(みつい)と呼ばれる器官に入れて貯える。こ…
飛鳥時代となり、白村江・壬申の乱(大友皇子 vs 大海人皇子(天武天皇))を 経て律令制度(中央政権)が強まります。 白村江には、吉備海部も参加したと考えられますが、以降は姿がありません! 大和朝廷に変わり、海軍力の世界ではなくなったようです。 壬申の乱では「東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる」とあり、 吉備国はまだ、大国としての体制を維持していたようですが、その後 「備前・備中・備後」への分割、「美作」の分立と勢力を分断されます。 大伯国も、藤原郡(和気郡)を分割され、「邑久郡」に縮小されます。 上道氏も氏族として衰退し、吉備の主役は、「吉備 真備(下道氏)」「和気清麻呂」 に移行し…
応神朝以降は、『 吉備氏 』記紀への記載も多くなります。 海部氏については、朝鮮にわたるなどヤマト王権に貢献していることが分かりますが、 上道臣・下道臣については、不幸が続きます。大和王権からの圧政が伺えます。 牛窓には前方後円墳が築造されていますが、海部氏の名は、それから読めません。 「 吉備海部直羽嶋 」 は、倉敷ではないでしょうか? 吉備上道臣の「吉備の山部を奪った」は、石上布都御魂神社周辺でしょか? 明らかに『 鉄資源 』が目的ですね。 磐井の乱には、吉備海部氏も動員されたでしょう! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 古墳時代(吉備) <大和王権> ・『先…
5月30日 福山城博物館「兜ーその様式と美ー」時代による兜の変遷を辿りながら室町・江戸時代に開花した変わり兜とそこから垣間見える美意識について紹介されています平安時代には「星兜(ほしかぶと)」 平安時代後期から南北朝時代には「筋兜(すじかぶと)」と、 加工技術の向上と戦闘形態の変化に合わせた兜が生まれます。 室町時代末期、全国で武将・豪族による合戦が多発する中でそれまでの兜とは全く異なる「変わり兜」が開発されるようになります。 黒漆塗四方白星兜 兎垂耳形兜 水野家家臣荻野家伝来 黒漆塗一の谷兜 生産性に優れ、槍や火縄銃への対策がなされた「頭形(ずなり)兜」、九州立花家家臣団に支給された「桃形(…
挿し絵はCanvaからのグラフィックです 6月30日午後五時から地域の鎮守、素盞鳴神社でおこなわれるの神事、夏越の大祓いに行ってきました。 今にも雨が降ってきそうでしたが、前もって配られていた人形(ひとがた)、お賽銭、この日まで玄関に掲げていた穢れ除けのミニ茅の輪をもって神社に向かいました。 (人形(ひとがた)・半紙や奉書でできたにんぎょうのこと名前を書き、体をなでたり息を吹きかけてから神社に納めたり、川に流したり、火で焚き上げたりします。この方法は神社によってさまざまです) 宮司さんの祝詞奏上、玉串奉てんに続いて集まった参拝者で大祓いを合唱。本殿へとつながる参道に設けられた大茅の輪を、神社の…
【平家物語80 第4巻 還御〈かんぎょ〉】 高倉上皇が厳島にお着きになったのは、 三月二十六日、 清盛入道相国が最も寵愛した内侍の家が仮御所となり、 なか二日の滞在中には、 読経の会と舞楽がにぎやかに行なわれた。 満願の日、 導師三井寺の公顕《こうげん》僧正は高座にのぼり、 鐘を鳴らして表白を声高らかに読みあげていわく、 「九重の都を出でられ、八重の潮路をかきわけて、 ここまでお出でになられた陛下の御心は かたじけない極みである」 この神前に捧げられた言葉には、 上皇を始め諸臣みな感激した。 そのあとで上皇は 末社にいたるまで隈なく御幸になり、 また厳島の座主尊永を 法眼《ほうげん》の位に上ら…
◯仙家秘訣無病長生法 古文調で読みにくい 川合清丸 - Wikipedia 著者の川合清丸は元々神道の人で、中年になって儒教仏教とかも勉強して、神儒仏の3つを土台に国教を作ろうとしたとした、みたいな感じ しかるに、この本の内容は仙道で、道教に分類されるようなものであり、神儒仏とあんま関係ないんだよね だから、著者は別にバリバリの道教の人で、それを専門にやっていたというわけでもなく、どちらかというと片手間にやってた感じ 神儒仏が本筋であり、この本はおまけみたいな位置づけ 著者の目標はあくまで国を良くすることであり、「山の中に隠棲するとかはやってられない。ただ、健康長寿の方法は役に立つので、それだ…
この時期だけの限定「御守り」として、茅の輪守りを授かることができる神社があります。 境内には、大きな茅の輪が設置されていて、参拝者がそれを潜って体を清めますが、もともとは小さな茅の輪でした。 蘇民将来の伝説が起源です。 ある時、須佐之男命が備後国を旅していた時、金持ちに断られたあと、貧しい蘇民将来の家に泊めてもらいました。 感動した須佐之男命は、そのお礼に茅の輪を授け、一族を守ってやろうと約束しました。 その際、「蘇民将来の子孫だとわかるように、一族は茅の輪を腰につけなさい。」と言い残し、去って行きました。 これには、いろいろなバージョンがありますが、その一つが茅の輪伝説です。 このように、茅…
2019年3月岡山県岡山市にある吉備津神社の参拝記録です。 [神社入口] [手水舎] ▼▽アクセス・住所▽▼ アクセス:JR「吉備津駅」より徒歩10分住所:岡山県岡山市北区吉備津931 [社殿] [廻廊] ▼▽御祭神▽▼ 大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと) [えびす宮] [本宮社] ▼▽創建について▽▼ 創建については文献なども無く分かっていない。吉備津彦命から五代目の孫にあたる加夜臣奈留美命が、祖神としてお祀りしたのが起源という説や、仁徳天皇が吉備国へ行幸した時、吉備津彦命の功績を称えるために社殿を創建したという説などがある。 - - - - - - - - - - ▼▽見どころ・チェッ…
東京都千代田区九段北『築土神社』、ニニギと平将門を祀る。 2024,5,27 前記事の東西小野神社の続き、東西小野神社をレイラインで結ぶと…。 奇しくもこの2社には6代孝安天皇という接点があり、宮下文書孝安時代登場の東西同時の鎮魂祭祀された比定社ではないか?と述べた。この両宮のラインを引くとドンピシャで比叡山延暦寺文殊楼を貫通する。レイラインは4月10日頃?朝日の方角で、列島を東西に駆け抜けている。 東西おのおのレイラインであり…。 三備きびきびきびレイラインでもあり…。 総合的にブレが大きいライン。ちょうど麻賀多神社〜麻賀多神社奥宮の1km程の帯状のラインとなる。おおよそ3つに区分されるライ…
別名 大谷米迫城 上山城 大谷九ノ平城 標高262m 比高165m 主な遺構 土塁・堀切・畝状竪堀群 アクセス 芦田町の中央を流れる有地川に沿った県道396号、次いで県道158号を進む。大谷城西側のため池を過ぎたところで左折し、城の南側の谷に回り込む。案内図に示した登り口から谷筋を登る。登り口付近の路肩に駐車可能。 城は有地川沿いの低地を見下ろす標高261mの山に築かれている。城の北斜面側はかつて砕石場であったから、大きく削り取られて遺構の一部が失われている。 山頂にはほぼ同じ高さの1・2郭が並び立ち、それぞれ腰曲輪を付属させる。東西両端の堀切a・cに面した部分をはじめ、曲輪の周囲は高く急峻な…