令制国のひとつ。現在の広島県東部の備後地方に相当する。「きびのみちのしりつくに」とも呼ばれた。
元は吉備国であったが、備前国・備中国・備後国の三国に分国された。そのため現在は行政では広島県に属するが、岡山県との文化的類似性が見られ、歴史的・経済的にも繋がりが強い。
国内に深津郡・安那郡・芦田郡・品治郡・神石郡・奴可郡・甲奴郡・世羅郡・沼隈郡・御調郡・三次郡・三谷郡・三上郡・恵蘇郡の14郡があり、国衙が芦田郡内の現・府中市中心部にあったとされる。
三次盆地南東部の市町。現在の広島県三次市三良坂町。中世は広沢氏の支配地域であり、後に毛利氏の支配下となった。少なくとも天正年間には「九日市」という市場が成立していた。 広沢氏の進出 「三郎坂一所九日市」 関連人物 参考文献 広沢氏の進出 元暦元年(1184)、相模国波多野荘を本貫とする波多野氏の庶流だった広沢実方は、備前藤戸(倉敷市)での平家との合戦で功名をたて、源頼朝から恩賞として建久三年(1192)に「備後国三谷郡十二郷」を賜ったという(『萩藩閥閲録』巻30)。この「三谷郡十二郷」は三谷郡の東方、つまり現在の三次市三良坂町・吉舎町一帯と推定されている。 南北朝期、広沢氏から分かれた和智氏は…
備後北部の三次盆地の出入口に位置する市町。 瀬戸内海と備後北部の山間部をつなぐ交通の要衝として栄えた。中世、備北の有力国人和智氏の本拠となった。 三玉大塚古墳 国人領主和智氏による寺社造営 地名からみる中世の市場 参考文献 三玉大塚古墳 現在の三次市吉舎町三玉にある三玉大塚古墳は、全長41メートルで三次盆地でも最大級の古墳とされる。形から帆立貝形古墳と呼ばれ、5世紀後半に築かれたと推定されている。 三玉大塚古墳の木棺には、かすがいを使用するという朝鮮半島の墳墓との共通点が認められ、朝鮮半島からの渡来文化の影響がみられるという。 5世紀、ヤマト王権は高句麗・新羅・百済の3国が争う朝鮮半島に出兵し…
備後国御調郡海裹荘の集落。現在の広島県世羅町宇津戸。戦国期に「備後国鋳師惣大工職」となった鋳物師丹下氏が根拠地とした。石見国と出雲国に向かう街道の分岐点であり、江戸期は宿場町としても栄えた。 海裹荘の登場 代官高橋泰光と地頭八幡神社再興 鋳物師丹下氏の活動 江戸期の宇津戸 関連人物 関連交易品 参考文献 海裹荘の登場 鎌倉後期の延慶二年(1309)九月、公文(領家方)戒円と地頭使者友安は六月二十六日付の「六波羅殿御下知」に従い、海裹荘における領家方と地頭方の下地中分を以下のように取り決めた(「内海正明家文書」)。 限東経所長尾尾道古大路、自大路東者領家方、中堺自落合河登リ土タコノ橋マテ、限西者…
御調八幡宮(三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。 御調八幡宮の神宝 弥生時代中期の銅戈 関連事項 参考文献 御調八幡宮の神宝 御調八幡宮で神宝「天逆鉾」が収蔵されている木箱の蓋には、以下のように記されている。 天逆鉾 寶永四丁亥天三月吉日/御調郡宮内村/八幡宮寶物之内/神宮寺現住宥仙代造焉 宝永四年(1707)にはすでに「天逆鉾」と呼ばれて神社の宝物となっていたことが分かる。また寛政四年(1792)の「御調郡宮内村指出帳」には「ほこのうねト申名所 八幡宮宝物ほこ、此所へふり…
高倉上皇が厳島にお着きになったのは、 三月二十六日、 清盛入道相国が最も寵愛した内侍の家が仮御所となり、 なか二日の滞在中には、 読経の会と舞楽がにぎやかに行なわれた。 満願の日、 導師三井寺の公顕《こうげん》僧正は高座にのぼり、 鐘を鳴らして表白を声高らかに読みあげていわく、 「九重の都を出でられ、八重の潮路をかきわけて、 ここまでお出でになられた陛下の御心は かたじけない極みである」 この神前に捧げられた言葉には、 上皇を始め諸臣みな感激した。 そのあとで上皇は 末社にいたるまで隈なく御幸になり、 また厳島の座主尊永を 法眼《ほうげん》の位に上らせるなど、 神主たちの位階昇進を行なわれたが…
備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。 舞楽太刀 五阿弥派 参考文献 舞楽太刀 毛抜形太刀は、柄に毛抜形の透かしが施されることに由来する。平安中期頃に登場した太刀の一様式であり、日本刀の原型と考えられている。柄(鉄製)と刀身とが接合され、一体となるよう作られている(共鉄造り)。 吉備津神社には「備州尾道五阿弥長行」の銘をもつ2口と、「正光」銘の2口、計4口の毛抜形太刀がある。いずれも平安期の毛抜形太刀の模古作と伝わる。『福山志料』巻…
備後一宮吉備津宮の門前町。吉備津宮は12世紀には史料にみえ、中世を通じて備後国内で広く信仰を集めた。江戸初期の境内図には、門前に町場が形成され、大工や鍛冶などの職人が住んでいたことが描かれている。 備後一宮吉備津宮 古図に描かれた町屋 参考文献 備後一宮吉備津宮 吉備津宮の文献上の初見は鳥羽院政期の久安四年(1148)二月で、京都祇園社の法華八講会の料所として備後国吉備津宮を寄付したことがみえる(「八坂神社記録」)。 永万元年(1165)六月付の「神祇官年貢進納諸写注文写」によると、備後国では吉備津宮のみが神祇官への年貢進上を命じられている(「宮内庁書陵部蔵永万文書」)。同注文写にみえる諸社は…
備後国の港町三原で造られた酒。17世紀初頭からその名が見える。三原では福島正則入部後に酒造業が発達したとみられ、その後全国屈指のブランドとなった。 三原酒の台頭 三原の酒造り 参考文献 三原酒の台頭 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。備後地域で名を知られた酒に尾道酒があり、慶長四年(1599)九月に贈答品として記録にみえ(『多聞院日記』)、毛利輝元も禁裏に献じている(『御湯殿上日記』)。 kuregure.hatenablog.com その後、尾道西方の港町三原でも、その名を冠する酒があらわれる。『…
備後国の尾道およびその周辺で生産された酒。室町期以前から酒造業が盛んであったとみられ、『庭訓往来』には名産として「備後酒」がみえる。16世紀末には全国的にも知られる酒となっており、貴人の贈答品としても用いられた。 備後の酒 歌島の酒屋の訴え 尾道酒の登場 尾道商人による酒の販売 全国的な名酒 日持ちのする酒 参考文献 備後の酒 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。また『新撰類聚往来 下』*1の「備後」条には、「酒酪久保」云々とみえる。 備後国が、伝統的に酒造りが知られた地域であったことがうかがえる。そ…
沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。 沼田小早川氏庶子家・土倉氏 幕府と大内氏の対立 伊予出兵 応仁の乱 備後国馬木陣 参考文献 沼田小早川氏庶子家・土倉氏 土倉氏は、沼田小早川春平の弟・夏平を祖とする沼田小早川氏の庶子家。南北朝後期に惣領家から分出されたと考えられている。夏平が沼田庄内土倉村(三原市大和町徳良)に居住したことから、土倉氏を名乗ったと推定される。大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭職も有し、大崎下島の大条浦にも所領を得ていた。 kuregure.hatenabl…