令制国のひとつ。現在の広島県東部の備後地方に相当する。「きびのみちのしりつくに」とも呼ばれた。
元は吉備国であったが、備前国・備中国・備後国の三国に分国された。そのため現在は行政では広島県に属するが、岡山県との文化的類似性が見られ、歴史的・経済的にも繋がりが強い。
国内に深津郡・安那郡・芦田郡・品治郡・神石郡・奴可郡・甲奴郡・世羅郡・沼隈郡・御調郡・三次郡・三谷郡・三上郡・恵蘇郡の14郡があり、国衙が芦田郡内の現・府中市中心部にあったとされる。
備後一宮吉備津神社に伝えられた太刀。尾道で活動した刀工・五阿弥長行が制作し、天文二十四年(1555)に寄進された。毛抜形太刀と呼ばれる平安期の様式の模古作とみられ、舞楽の際に使用されたと考えられている。 舞楽太刀 五阿弥派 参考文献 舞楽太刀 毛抜形太刀は、柄に毛抜形の透かしが施されることに由来する。平安中期頃に登場した太刀の一様式であり、日本刀の原型と考えられている。柄(鉄製)と刀身とが接合され、一体となるよう作られている(共鉄造り)。 吉備津神社には「備州尾道五阿弥長行」の銘をもつ2口と、「正光」銘の2口、計4口の毛抜形太刀がある。いずれも平安期の毛抜形太刀の模古作と伝わる。『福山志料』巻…
備後一宮吉備津宮の門前町。吉備津宮は12世紀には史料にみえ、中世を通じて備後国内で広く信仰を集めた。江戸初期の境内図には、門前に町場が形成され、大工や鍛冶などの職人が住んでいたことが描かれている。 備後一宮吉備津宮 古図に描かれた町屋 参考文献 備後一宮吉備津宮 吉備津宮の文献上の初見は鳥羽院政期の久安四年(1148)二月で、京都祇園社の法華八講会の料所として備後国吉備津宮を寄付したことがみえる(「八坂神社記録」)。 永万元年(1165)六月付の「神祇官年貢進納諸写注文写」によると、備後国では吉備津宮のみが神祇官への年貢進上を命じられている(「宮内庁書陵部蔵永万文書」)。同注文写にみえる諸社は…
備後国の港町三原で造られた酒。17世紀初頭からその名が見える。三原では福島正則入部後に酒造業が発達したとみられ、その後全国屈指のブランドとなった。 三原酒の台頭 三原の酒造り 参考文献 三原酒の台頭 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。備後地域で名を知られた酒に尾道酒があり、慶長四年(1599)九月に贈答品として記録にみえ(『多聞院日記』)、毛利輝元も禁裏に献じている(『御湯殿上日記』)。 kuregure.hatenablog.com その後、尾道西方の港町三原でも、その名を冠する酒があらわれる。『…
備後国の尾道およびその周辺で生産された酒。室町期以前から酒造業が盛んであったとみられ、『庭訓往来』には名産として「備後酒」がみえる。16世紀末には全国的にも知られる酒となっており、貴人の贈答品としても用いられた。 備後の酒 歌島の酒屋の訴え 尾道酒の登場 尾道商人による酒の販売 全国的な名酒 日持ちのする酒 参考文献 備後の酒 室町初期に成立したとみられる『庭訓往来』の「四月十一日状」には諸国の名産品が列記されており、その一つに「備後酒」が挙げられている。また『新撰類聚往来 下』*1の「備後」条には、「酒酪久保」云々とみえる。 備後国が、伝統的に酒造りが知られた地域であったことがうかがえる。そ…
沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。 沼田小早川氏庶子家・土倉氏 幕府と大内氏の対立 伊予出兵 応仁の乱 備後国馬木陣 参考文献 沼田小早川氏庶子家・土倉氏 土倉氏は、沼田小早川春平の弟・夏平を祖とする沼田小早川氏の庶子家。南北朝後期に惣領家から分出されたと考えられている。夏平が沼田庄内土倉村(三原市大和町徳良)に居住したことから、土倉氏を名乗ったと推定される。大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭職も有し、大崎下島の大条浦にも所領を得ていた。 kuregure.hatenabl…
備後南部、芦田川河口部の港町草戸を拠点とした金融業者。草戸千軒町遺跡から出土した15世紀後半の木簡にその名が見える。 草戸に送られた国衙領年貢 今倉殿の蔵? 参考文献 草戸に送られた国衙領年貢 広島県福山市の草戸千軒町遺跡の15世紀後半の遺構からは、多くの木簡が出土している。その一つに、片面に「こいよりしやうせい」、その裏面に「くしかき五(把)くさいち いまくらとのへまいる」と書かれた木簡がある。 この木簡はその形態から、荷物に添えた付札木簡と考えられる。すなわち「こい」*1という場所から送付した「正税(しょうぜい)」(国衙領からの年貢)に付けられたタグであった。裏面の内容から、送られた国衙領…
備後国南部、芦田川河口部の港町。鎌倉期に成立し、地域経済拠点としての役割を果たしながら、16世紀初頭まで存続した。なお集落の名称は時代によって「草津」、「草井地(くさいち)」、「草出(くさいつ)」、「草土(くさど)」、「草戸(くさど)」などと変遷する。本項では便宜上、「草戸」で統一する。 中世集落としての草戸の成立 草戸の町の発展と拡大 14世紀後半の停滞 室町期の繁栄 応仁・文明の乱 町の終焉 関連人物 関連交易品 参考文献 中世集落としての草戸の成立 草戸千軒町遺跡の調査によれば、集落の成立は鎌倉期の13世紀中頃とみられる。この頃になると遺跡の中央部から北部にかけて、井戸や溝、土坑などの遺…
備後国の福山湾に面した港町。中世までは蔵王山から南へ突き出た深津丘陵(深津高地)によって深い湾が形成されていたとみられる。現在の広島県福山市東深津町*1。9世紀の文献に市場の賑わいが記されており、中世においても活発な商取引があったと推定される。 古代の深津市 京都と備後をつなぐ経済拠点 毛利元康の支配 水野勝成の入部 参考文献 古代の深津市 9世紀前半に成立した『日本霊異記』下巻第27「髑髏の目の穴の笋を掲キ脱チテ、祈ひて霊しき表を示す縁」に深津市がみえる。物語の時代は宝亀九年(778)、登場人物は備後国葦田郡(広島県府中市から福山市新市町あたり)の住人。深津市は人々が正月に必要な物資を買い揃…
備後国で生産された漆器。広島県福山市草戸町の草戸千軒町遺跡からは、多くの漆器とともに、へら等の漆塗りの道具も出土している。 平安期の備後の漆 草出(草戸)での漆器生産 上質漆器の流通 漆塗り職人の高額取引 参考文献 平安期の備後の漆 備後国府跡(広島県府中市)では、漆が付着する須恵器などが出土。このことから、8世紀頃には漆の集積と塗布作業が行われたと考えられている。10世紀の『延喜式』では、漆の貢進国の一つに備後国が挙げられている。 草出(草戸)での漆器生産 備後国の芦田川河口付近に立地した港町・草戸*1 は、鎌倉期の13世紀中頃から16世紀初頭にかけて地域経済拠点として栄えたと推定されている…
この日記は明治元年四月一日から始まっています。この年は九月八日に明治と改元されました。それまでは慶応四年でした。 この年は次のような出来事がありました。 一月三日 鳥羽、伏見の戦い。 三月十四日 西郷隆盛と勝海舟が会談し江戸城開城の了解なる。五ケ条の誓文発布(十五日、五枚の立札を掲示)。 三月二十一日 天皇が大阪行幸。閏四月八日京都へ帰る。 四月四日 江戸城開城し、十一日徳川慶喜水戸に屏居謹慎し、榎本武揚が幕府の軍艦を率いて北海道へ向かう。 四月二十五日 近藤勇、江戸下板橋で斬られる(三十五歳)。 閏四月八日 天皇が大阪行幸から京都へ帰る。 閏四月三日 福沢諭吉、芝に英学塾を移転し慶應義塾と改…
序文・スサノオをもてなした 堀口尚次 蘇民将来(そみんしょうらい)は、備後国風土記に記された人物であり、日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰となっている。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神(くにつかみ)系の神〈おもにスサノオ〉を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。 古くは鎌倉時代中期の卜部兼方(うらべのかねかた)『釈日本記』…
標高360m 比髙80m 主な遺構:土塁・堀切・竪堀 アクセス 三次市役所君田支所から県道36号を北上。道の駅「ふぉレスト君田」のある君田町泉吉田で左折、引き続き神之瀬川に沿って進むと右手に「きみた折り紙博物館」(旧君田上小学校)がある。博物館への道を上っていくと左手に小さな祠がある。その裏手から登る。 城は曲流する神之瀬川に三方を囲まれた丘に載る。東西2つのピークからなる丘頂部には鞍部の堀切を挟んで向かい合うように1・2郭が配置される。 北側山腹を経由する登城路が堀切脇の3郭に入ってくる。ここが虎口で、登城路からの視界を遮断するように曲輪北辺に土塁が築かれている。1郭との間の堀切には土橋が架…
'24/02/29 【ウィキペディア版】 :ダニエル・ジョン・フォード・パディーヤ(Daniel John Ford Padilla、1995年4月26日 - )は、フィリピン人の俳優、歌手。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 【X版】 #ダニエル・パディーヤ ダニー・Lの把泥屋(Danny・エル_の_ぱでい≡や): 備後県福山市に拠点を構え、民間並行異郷関連企業に連なる探偵事務所。 所長を務める『ダニー・L』は、ハリウッドの映画監督であったジョン・フォードに師事していた元俳優という経歴を持つ、フィリピン出身…
文字霊日記・3435日目 太るも痩せるも・・・死ぬも生きるも 食い物次第・・・?・・・難民救済の「緒方貞子」氏 ナゼ 「禹豆満佐=うずまさ」 ナノのか・・・菜音(なの)か・・・? カンジ分解で下向(文析・細分)し、上向(文積・止揚) ↓↑ 独語・Aufheben(アウフヘーベン)=止揚・揚棄 合う譜(符) 併(経意) 弁(辯・卞) ↓↑ 止揚・揚棄=Aufheben ヘーゲル弁証法 低い次元で 矛盾対立 する二つの 「概念」や・・・概念の意味の止揚は判るが 「事物」を・・・事物はそれ自体が止揚物である ↓↑ 「事物・生物」のプロセスの変化 この事物は構造変化の 始~構造組織化~終~結果 ↓↑ …
'24/02/24 【ウィキペディア版】 :「いい感じ やな感じ」(いいかんじ やなかんじ)は、EAST END×YURIの3枚目のシングル。1995年4月21日発売。 -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・- 【X版】 #いい感じ_やな感じ 井伊・寛治(いい・かんじ)と、柳井・莞爾(やない・かんじ): 1995年現在、『備前県立帝世羅高校(びぜん≡けん-りつ_ていせら≡こう-こう)』に在籍する、3学年の男子学生2人組。 後に、物事の根幹を簡潔に説明する学問である『素論理学(そ=ろん-り≡がく)』の確立に貢献する。 …
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 2024年2月18日 YAHOO!JAPANニュース プレジデントオンライン「藤原道長の年収は3億円超、下級貴族は680万円以下…平安貴族たちの「給与格差」の知られざる実態 山口 博 の意見 • 23 時間 『紫式部日記絵巻』より藤原道長(画像=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons) © PRESIDENT Online NHK大河ドラマ「光る君へ」で描かれる平安貴族たちは、どんな暮らしをしていたのか。古代和歌を研究する国文学者・山口博さんの著書『悩める平安貴族…
少し遅くなってしまいましたが、今年2度目の旧山陽道を宿から尾道まで歩いてきました。今回はルートを少し変えて、途中から国道2号線沿いのお店を見ながら尾道市へ入りました。 西へ車で5分ほど走れば尾道市へ入りますが、歩くと20分ほどかかります。自転車や原付旅の方は時々、ここで写真を撮られる方もいます。ここから、しまなみ海道で四国へ行く方、そのまま西へ広島・福岡へ行く方に分かれます。また旧道に戻り、坊地峠山頂の芸州国と備後国の番所を通過すれば尾道市の中心部へと入ります。旧山陽道の宿場町はたくさんありますが、今でもきれいに残っているのは岡山県の矢掛宿かな。福山市も昔は岡山県に入っていましたので、今でも広…
2024 年 2 月 9 日( 金 ) 戦国IXA 新たなる舞台が開幕・・・! 流天絶花 ~ 静謐の争奪 ~ ↓↓ 新たなる舞台の詳細はこちらもく https://sengokuixa.jp/season27_wagahana/ 新たなる舞台では 新【 傑 】武将カードとして 室町幕府 最後の将軍が登場するもく!!!! そして 大殿ならびに 新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!! ↓↓ 【傑】 の詳細はこちらもく https://sengokuixa.jp/new_rarity/ 足利義昭 さんは、室町幕府の第十五代、そして最後の将軍もく 第十二代将軍・義晴さんの…
標高382m 比髙180m 主な遺構:土塁・堀切・畝状竪堀群 アクセス 三次から国道183号を庄原方面へ向かう。道が中国縦貫道の高架下を抜けるとすぐ左折し、狭い舗装道路を北西に進む。山裾についたら、その先は案内図に見える破線の徒歩道を登るが、道は荒れている。 二ツ山城は三次市和知町の北端、庄原市境にある。『芸藩通志』の和知村絵図には「古城跡 二ツ山」が見え、城墟欄では次のように記している。 国広山 和知村にあり、一に二川山ともいふ、初め国広石見が所居、のち和知実方より七世これに居る 二ツ山城は国広山城とも呼び、和智(和知)氏代々の居城であった、ということなのだが、困ったことに当城の南方には別の…
福山中心部で仕事を終えて、時間がありましたので久しぶりに神辺城跡へ行ってみました。宿前の道路も旧山陽道ですが、宿のある「今津宿」の次は「神辺宿」になり、神辺も昔の面影が多く残っていて面白いです。神辺城跡も山頂にありますので見晴らしが良いですね〜とくに冬は木々に葉が付いていませんので下の方もきれいに見渡せます。 神辺城も鞆城(鞆の浦)も江戸時代の一国一城令で壊されたのは残念です。備後国は福山城だけ残りましたが、当時周辺は湿地帯で目の前が海でした。今は埋め立てられ福山駅ができ、お掘りが道路になり、ビルが建ち並び地方都市になり、海はかなり南へと移動してしまいました。 福山は隣の尾道の影に隠れて知らな…
島津義久(しまづよしひさ)・島津義弘(よしひろ)・島津歳久(としひさ)・島津家久(いえひさ)の四兄弟の進撃は、島津氏の最大版図を築く。九州の大部分を制圧しようとしていた。 そして天正14年(1586年)、島津と大友が全面抗争へ。島津氏は大友氏領内への侵攻を開始する。一方の大友義鎮(おおともよししげ、大友宗麟、そうりん)・大友義統(よしむね)は豊臣秀吉を頼った。豊臣秀吉は九州に大軍勢を派遣する。 島津と大友の微妙な関係 天正14年の九州の勢力図 島津の両殿体制、そして日向の末弟 島津と毛利 豊臣秀吉の惣無事令 戦を急ぎたい島津家臣団 豊後攻めが決まるが…… 筑前へ出陣 勝尾城の戦い 岩屋城の戦い…
土曜日は宿から尾道まで旧山陽道(約8キロ)をのんびりと2時間かけて歩きました。この冬はすごく暖かいので助かりますが、夏は昨年のような猛暑だけは勘弁してほしいものです。 旧道は交通量も少なくて歩きやすいです。今では住宅が建ち並び観光地のような整備されたきれいな景色は見られませんが、歩いていると畳屋や呉服屋や神社などがあり昔の面影が感じられます。福山市から尾道市へ入るとくねくねと曲がっている道も増えてきて坊地峠の山頂で芸州領(安芸国)と備後国の国境があり、坂道を下ると尾道の町へと繋がっていきます。 今はオフシーズンということもあり、浄土寺も観光客が全くいなくて静かな雰囲気を楽しめました。その後は映…