倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山で挙兵、それの呼応して当地の豪族で在った楠木正成は赤坂城を築き自らも挙兵、「元弘の乱」主戦場の一つとなった城です。 鎌倉幕府の大軍に包囲され衆寡敵せず下赤坂城は落城するも、より山奥の上赤坂城や千早城で奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄し戦い続けた楠木正成一連の「楠木七城」の戦いは「太平記」に記述され後の世にも伝えられて居ます。 元々城と言っても天然の要害を利用した俄作りの粗末な建物群だったらしく、現在は城としての遺構は何も残らず、場所も明確でなく千早赤阪村役場の上付近が主郭(本丸)で在ったと云われ千早赤阪中学校の裏手説もある様です。 近鉄長野線・富田林駅前。 千早…