元明天皇。第43代(707〜715)天皇。日本根子天津御代豊國成姫天皇とも。 天智天皇の第四皇女で、草壁皇子(天武天皇皇太子)の妃、先帝文武天皇の母。 文武天皇早逝後、持統帝にならい、その子の首皇子(聖武天皇)が幼少であったことから皇位を嫡孫に確実に継承するという理由で即位した。 皇后経験者ではない初めての女帝。 藤原不比等を重用し律令官制を整備。 和同開珎の鋳造、平城京遷都、『古事記』や『風土記』の編纂など。 娘の元正天皇(皇女氷高内親王)に譲位、太上天皇を称する。
訓読 >>> これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる紀路(きぢ)にありといふ名に負ふ背(せ)の山 要旨 >>> これがまあ、大和にいたときに私が見たいと憧れていた、これが紀伊道にあるというあの有名な背の山なのか。 鑑賞 >>> 阿閉皇女(あへのひめみこ)が背の山を越えるときに作った歌。年月日は記されていませんが、直前の歌が持統天皇4年(690年)9月の紀伊行幸時の歌であることから、同じ行幸の際に詠まれた可能性が指摘されています。阿閉皇女は天智天皇の皇女、草壁皇子の妃だった人で、後の元明天皇です。この時は、夫の草壁皇子が亡くなって1年半近くが経っており、子の軽皇子(後の文武天皇)は8歳になってい…
●歌は、「大君の 命畏み 親びにし 家を置き こもりくの 泊瀬の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈の 八十隈おちず 万たび かへり見しつつ 玉桙の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣の上ゆ 朝月夜 さやかに見れば 栲のほに 夜の霜降り 岩床と 川の氷凝り 寒き夜を 息むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに 来ませ大君よ 我れも通はむ(1-79)」ならびに「あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな(1-80)」である。 奈良市田原本町阪手 村屋坐彌冨都比売神社万葉歌碑(作者未詳) ●歌碑は、奈良市田原本町阪手 村屋坐彌冨都比売神社にある…
訓読 >>> 76ますらをの鞆(とも)の音(おと)すなり物部(もののべ)の大臣(おほまへつきみ)楯(たて)立つらしも 77吾が大君(おほきみ)ものな思ほし皇神(すめかみ)の継ぎて賜(たま)へる我(われ)なけなくに 要旨 >>> 〈76〉勇ましい男子たちの鞆の音が聞こえる。物部の大臣が楯を立てているらしい。 〈77〉お仕え申し上げる大君よ、ご心配なさいますな。皇祖の神が、あなた様に次いでこの世に下し賜わった、私という者がお側にいるではないですか。 鑑賞 >>> 76は、元明天皇の御製歌。77は、76の歌に御名部皇女(みなべのひめみこ)が和したもの。元明天皇は、天智天皇の第4皇女で草壁皇子の妃、持…
訓読 >>> 飛ぶ鳥の明日香(あすか)の里を置きて去(い)なば君があたりは見えずかもあらむ 要旨 >>> 明日香の里をあとにして、奈良の都に行ってしまえば、あなたが住んでいたところは見えなくなってしまうのか。 鑑賞 >>> 和銅3年(710年)の2月に、藤原宮から寧楽宮(奈良の宮)に遷った時に、御輿を長屋原にとどめ、古都藤原京を振り返り見て作ったという歌です。作者名は記されていませんが、元明天皇とされます。「長屋原」は、現在の天理市南部にあり、ちょうど中つ道の中間点にあたります。中つ道とは、香具山からまっすぐ北に伸びた道で、大和国内には、上つ道、中つ道、下つ道という南北を平行して縦貫する3本の…