院号は光厳院。諱は量仁親王。退位し光厳上皇。出家し光厳法皇。
正和2年(1313年)7月9日〜貞治3年(1364年)7月7日。在位期間は元徳3年(1331年)9月20日〜正慶2年(1333年)5月25日。
実父は後伏見天皇だが義父は花園天皇。母は西園寺寧子(広義門院)。子に崇光天皇、後光厳天皇がいる。
院政史については、
→光厳院
後醍醐天皇が両統迭立を無効と主張したため先延ばしになっていたが、元弘の乱で後醍醐天皇が廃位にされたため光厳天皇が立てられる。しかし後醍醐天皇が三種の神器を持って逃げたため、平家追討中の後鳥羽天皇即位の故事にならい後伏見上皇の院宣をもとに践祚。後、後醍醐天皇が捕らえられると三種の神器も戻り正式に即位する。
在位中は後伏見院が院政を行っていた。
だが、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すと光厳天皇の皇位を無効としそのまま廃されてしまった。
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