聖武天皇の皇后。
幼名は安宿媛。尊号は天平応真仁正皇太后。
光明皇后(光明皇太后)、藤原皇后(藤原皇太后)、藤三娘とも。
大宝元年(701年)〜天平宝字4年(760年)6月7日。
藤原氏。父は藤原不比等。母は橘三千代。子に孝謙天皇(称徳天皇)がいる。
仏教に帰依し慈善活動を行ったことでも有名。通説で実在したとされる最初の人臣皇后ではあるが、有史以来初の人臣皇后ではない。
阿倍内親王(孝謙天皇)の後、基王を生むが王は翌年薨去。藤原氏一族が光明子の立后を図った謀略と考えられている長屋王の変はその翌年に起き、皇后となる。聖武天皇は仁徳天皇の皇后・磐之媛命の例を挙げて立后を後押ししていたとされる。国分寺建立も皇后の進言があったとのこと。
孝謙天皇が即位すると皇太后宮職が紫微中台(後に坤宮官)に一新される。この組織は皇太后の詔勅を施行するためのもので、人事権も皇太后が掌握していた。長官に就いた藤原仲麻呂が権勢を振るい、淳仁天皇の代になると皇太后に尊号が贈られる。皇太后が崩御すると仲麻呂の権勢も衰退。
大雑把に言って藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)と皇太后のどちらが政権を主導していたかで見方が分かれる。