李氏朝鮮第26代国王で大韓帝国初代皇帝の高宗のこと。
→高宗
前6年〜57年(皇帝在位25年〜57年)。姓名は劉秀で字は文叔。
後漢王朝の初代皇帝。荊州南陽郡舂陵の人。前漢6代皇帝景帝の庶子・長沙定王劉発の子孫にあたるが、彼自身は傍系であるため生まれは無爵でしかも三男坊であった。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱した中国国内(当時の漢民族居住地域)を、紆余曲折を経て再統一し、漢王朝の再興と称して後漢王朝を建国した。
sarukichitail様、コメントありがとうございます。やっぱり、(建武帝)ではなく(光武帝)ですよね??? 現在BSで放送中の中国歴史ドラマ、【秀麗伝~美しき賢后と帝の紡ぐ愛】で、光武帝ではなく【建武帝(劉秀)】と表示されるのです。 (ん???)とずっと思っていたのですが、昨日、記事に書く時、念のためGoogle先生で確認したところ、光武帝の情報は出てくるけれど、建武帝は【秀麗伝~美しき賢后と帝の紡ぐ愛】でしか表示されなかったのです。 検索バーに(建武帝 光武帝)と予測変換が表示されたので、私のように混乱して検索した人が多いのかな?と思ったのですが、ドラマの制作は中国なので、自国の歴史に…
6月1日は車を日帰りで車検に出してきました。天気予報では、2日は私の住む地域は一日中強い雨にさらされるらしく、確かに午前3時現在外から激しい雨音が聞こえてきている。1日前でよかった。30箱もティッシュペーパーの箱をくれたので、暫くティッシュには困らずに済みそう。 車検の間、本屋に立ち寄って面白そうな歴史の新書はないかと探したのですが、今の新書は胡散臭いものかわかりきったものの焼き直しか、そんなのばっかり。あと平台に並んでいるのがバカとはケンカするなとか何とか、これまた胡乱な自己啓発書の類いばかり。大学時代の一時期、著名な人の記した自己啓発書みたいなものを色々読んだのですが、結局どれもクソの役に…
さて、今回は曹據の紹介じゃな。この辺りの人物も詳しく知っている人物はそんなにいないのではなかろうか。彼はどんな人物だったか、見ていくとしよう。
hyenaさんから<倭面土国について検討するなら、まずこれ>という趣旨で、「西嶋定生氏『倭国の出現』」の紹介を受けました。 この本は所有しているのですが、まだ詳細は読み切れていませんでした。 ざっと読んだ段階では、『後漢紀』の57年107年遣使を記述しておられて、慧眼な方と感じていました。 但し、hyenaさんによる以下の批判論考を見せて頂いたら、論理展開が疑問な方と分かってきました。 西嶋定生説批判 「倭 国 之 極 南 界 也 」及 び「倭 面 土 国 」について →論考中の表に引用された「西嶋氏見解」を示します(当方抜粋ですが長文です) <第二の問題とは、『後漢書』倭伝の建武中元二年(五…
文字霊日記・3308日目 ボッチジジィの独(ひと)り善(よ)がりなタワゴト 独自・独断・独(ひと)り善(よ)がりな自ずからの言辞 ↓↑ 「Plato=プラトン=布拉多・布拉達・伯拉多・伯羅多」 「プラトン古事記をカタル」 とは 独自・独断・・・独(ひと)り善(よ)がりな ボクの 「妄想雑文」のアソビでのタイトルだが・・・ 「符(附・付)覶(ラ)遁(トン)」・・・ 「purato・冥王星(メイオウセイ・Pluto)」 「プルトン=冥王星(メイオウセイ)」・・・ ↓↑ 当然にも 厳格な 「記憶力(?)」を有する AIの 「Bing」さんには理解してもらえなかったみたいであるカナ・・・ ↓↑ バルト…
吉川忠夫「范曄と『後漢書』」の続きを見ていましたら、袁宏『後漢紀』の序でも「後漢書を読むに煩穢雜亂・・・」という表現が有りました。 それで、原文を参照してみようと思い、hyenaさんサイトを見せて頂いたら、以下のようにありました。 袁宏『後漢紀』序 <予嘗讀後漢書,煩穢雜亂,睡而不能竟也> 煩穢:繁冗蕪雜 by 漢典。雜亂:入りまじって、みだれる。 →また、この部分の「讀後漢書」は、「後漢の書を讀むに」と読み下しておられます 袁宏と范曄は、同じような史料を参照したと推測されます。 当ブログでも検討しました。 ”(B047)「後漢紀」と「後漢書」の比較” <「後漢紀」と「後漢書」の記述は基本的に…
『山海経』「海内北経」には、倭は燕に属するという記述がある。 『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が鬯草を貢いだという記述がある。 『論語』には、孔丘(孔子)が乱世となった「中国」を嘆いて「九夷」に移り住むことを願う逸話がある。宋の劉敞は『公是七経小伝』において、その「夷」とは「中国」の範囲内であると主張する。梁(南朝)の皇侃の施した注釈である『論語義疏』によれば、「九夷」の内の1つの土地は倭である。 唐の孔穎達が記した『礼記』「王制」の注釈は、『爾雅注』を引いて「九夷」の1つを倭としている。 中歴12当初、孔丘(孔子)の憧れた理想郷である「夷」の地は朝鮮半島あたりと捉えられて…
まず訂正です。 (B056)と(B057)の2回にわたって「陳長崎教授」の見解として紹介した内容は、ブログ主さんの見解でした。 当該ブログに掲載の陳教授の解釈部分を改めて引用すると以下になります。 <中国魏晋南北朝史学会 副会長 陳長崎教授は以下のように指摘している。 「魏志倭人伝は魏の時代について書かれた文章そのものではない、いくつかの時代の史料が融合した可能性が高く、漢代・三国時代・西晋時代の記述が混在している。 例えば、刺使は漢代では監察官、魏の時代では行政官を意味する。魏の時代になると刺使の役割は「行政官」になり「監察官」ではないにも関わらず魏志倭人伝では「監察官」の意味で使われている…
昨日記事の「陳長崎教授」見解(5月15日訂正:これは陳教授ではなくブログ主さんの見解でした) <今なお、5世紀に書かれた「後漢書」は3世紀に書かれた「魏志倭人伝」を参考にしたという珍説が定説がごとく述べられているが、江戸時代の歴史書を書くのに明治時代の歴史書を参考にして「江戸」を「東京」と書き間違えるだろうか?子供だましのような珍説奇説を学会を代表する学者が唱えているのである。> →「江戸と東京」で思い出したのが、「京師と京都」。 「中国哲学書電子化計画」サイトで改めて調べてみたら、以下に示すように、「魏志は京都、後漢書は京師」と明確に分かれています。 ◆魏志帝紀:京師0、京都12箇所 1. …
後漢書と後漢紀の本紀を比較してみました。 暫定版ですが以下に添付します。 比較対象としては、「倭の遣使記事」がある部分の前後を抽出して比較(赤字は両書で一致が見られる箇所...目視比較で抜けが有る可能性は充分あり) ◆光武帝記(最後)57年遣使 ◆考安帝紀(最初)107年遣使 ➡ざっくり見て、「両書で一致する箇所も有るが、一致しない箇所もある」ということで資料系統は一概に言えないという感じがしています。 但し両書の相違点自体は多いので、「後漢紀を参照しても後漢書本紀は書けない」という関係性は確実に言えると思います。 以上
新羅とはなんだったか。ローマ文化の影響、扶余族の建国、出雲やスサノオとの関連性を含めて紹介する。 ■「ローマ文化王国ー新羅」の歴史的意義「ローマ文化王国ー新羅」は由水常雄氏の著作で2001年に発刊された。ガラス工芸の研究家である由水氏は「ローマングラス」に着目、ローマ文化の新羅への影響を研究した。これが朝鮮半島における古代史への認識を大きく転換させることになる。 ■シルクロード中国がシルクロードの中心地であったのに対し、新羅は東側に伸びる幹線路の起点ともいえる。一方、日本の正倉院はその新羅を通じた東側に向かう幹線路の終着点といえるだろうか。ちなみにシルクロードとは中国で生産される絹織物の貿易に…
三国志 丹薬 仙氣 妖魔 陰陽五行 神獣 一敗塗地 報仇雪恨 漢室衰微 ■ウォーロン(Wo Long)攻略 Wo Long Fallen Dynasty(ウォーロン フォールンダイナスティ)の攻略サイトです。 トロコンまでのミッション攻略、動画付きでボスをノーダメージで倒し方、各種攻略情報をまとめてます。 ■黄巾の乱から始まるダークファンタジーな三国志ウォーロンの舞台は西暦184年、後漢末期の中国から始まる。三国志は西暦180年~280年頃から、 曹魏(そうぎ)、孫呉(そんご)、蜀漢(しょくかん)の3つの国が覇権を争って戦ったので、物語は序盤のところから描かれてます。 引用:https://d…
57年に後漢の光武帝が倭の奴国王に授けたとされる金印。金印に刻まれた名前の国はいったい何を意味するのだろうか。■金印には何が刻まれているのか教科書などでは中国の皇帝から倭の奴国王に金印が授けられたと紹介される。まず金印には何と書いてあるだろうか。「漢」と「委奴國王」と記されている。倭とは書いていない。ただし、倭を省略して委とすることはありえるとされる。↓下記で金印を画像で確認できる www3.nhk.or.jp ■金印はどこで発見されたのか志賀島(福岡県福岡市東区)、江戸時代に、農民が地面を掘っていたら金印が出てきたとされる。■金印への疑惑がある発見の経緯が疑問とされる。疑惑の論証がなされない…
10話感想メモ ボンファンと入れ替わった王妃が自分の体で勝手をしているのではと、ボンファンが男性をナンパしている様子を想像しているが、深窓令嬢の王妃さまがするワケがないです(チェ尚宮口調で読んでほしい)。ついにこっくりさんにまで手を出している王妃ソヨン。韓国にもあるのね。
27話感想 顧司使の訓示は「欲をかかず、人を欺かず、ごまかさず、命を惜しまず/勿贪、勿骗、勿敷衍、勿贪生」の南衙(なんが)の掟。皇城司の扁額は【志安社稷】。 駱賓王は則天武后が実権を握ると左遷され、武后の即位に反対した徐敬業が兵を挙げた時に、檄文を章した。駱賓王は『在獄詠蝉』も記しており、記事「琅琊榜<弐>と蝉について」の高潔な蝉の項で解説。
「濊」伝の両書比較 (基本的に横方向の項目同士で対応が見られます。但し、一部は順番が変わってています。また「魏代」の記事は後漢書に無し。なお、対応しているように見える記事でも語句や内容が違っている項目が多いです) hyenaさんとのツィッターやり取り。 ●当方: 両書比較の続きで「濊」をやってみました。 添付のように比較すると予想以上に相違大。 「范書の方が年号が入った詳細記事が多い」など、陳書⇒范書の修整は到底有り得いように見えます ●hyenaさん: https://twitter.com/hyena_no/status/1652482156596432896 >「濊」 『魏志』には後漢代…