八八艦隊計画とは、20世紀初頭に大日本帝国海軍が作成した艦隊整備計画。
艦齢8年以内の戦艦8隻、巡洋艦8隻の常備を中心に、多数の補助艦艇を整備する大建艦計画だった。
しかしながら、当時の財政からはあまりに負担の大きいものであり、米英との海軍軍縮条約(ワシントン条約)によって中止された。
この計画で実際に戦力化されたのは、長門型戦艦2隻のほか、球磨型軽巡洋艦〜夕張型軽巡洋艦14隻などであった。
日露戦争後軍事費の負担が大きくなり、また、当面脅威となる国が無くなったことから、海軍の整備計画は一時期よりトーンダウンしていた。
しかし、1906年にイギリスで戦艦ドレッドノートが建造されると、それまでの主力艦は一気に旧式化し、世界的な建艦競争は激しくなった。
日本では、薩摩型戦艦と摂津型戦艦を整備していたが、就役時点で既に旧式化しており、金剛型巡洋戦艦と扶桑型戦艦及び伊勢型戦艦を急速に建造した。
第一次世界大戦が勃発すると、初めての超弩級巡洋戦艦同士の海戦であるドッガー・バンク海戦、超弩級戦艦と超弩級巡洋戦艦が入り乱れるジュットランド海戦がおき、その戦訓から、巡洋戦艦である金剛型はともかく、建造中あるいは就役直後の扶桑型、伊勢型ともに防御力や構造に問題があり、戦力としては不十分であることが判明する。
ジュットランド海戦によって、主力艦に軒並みダメ出しをされてしまった日本海軍は、早急にまともな主力艦整備を求められることになった。
八八艦隊計画の基礎となる艦隊整備案は、日露戦争直後から主力艦整備計画として提案されていたが、財政への負担から停滞気味であったが、アメリカの太平洋艦隊が急速に増強されていたこともあり、1917年に長門型戦艦の整備を中心とする八四艦隊計画案として承認されることとなった。
その後、1918年に八六艦隊計画、1920年に八八艦隊計画と順次拡大承認された。
八八艦隊計画が完全に遂行されていれば……という妄想は、この手の計画倒れを見ると誰しも思うことだろうが、実際にやってたら太平洋戦争前に国が滅んだと思われる。