文久3年8月18日(グレゴリオ暦:1863年9月30日)に公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放したクーデター。前年から長州藩を中心とした攘夷派勢力の活動が活発となり,この年五月の長州藩による外国船砲撃事件や,翌年8月に大和行幸・攘夷親征の詔勅を発して一挙に倒幕・王政復古に突き進もうとする画策に危機感を抱いた薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派が中川宮を擁して,朝議を覆し長州藩と急進派公卿七名など(七卿落ち)を一挙に朝廷から追放したもの。
1863年に起きた3つの事件:下関戦争、薩英戦争、八月十八日の政変について学んでいきます。 1.きっかけ・情報源 今日の写真と地図 2.学んだこと ①下関戦争とは?(1863年5月) ②薩英戦争とは?(1863年7月) ③八月十八日の政変(1863年8月) 3.コメントと参考英語動画 4.全国通訳案内士試験問題:下関戦争・薩英戦争・八月十八日の政変関連 5.ブログ内リンク(トップページ含む) 1.きっかけ・情報源 幕末・維新・明治初期をしっかりと学ぼうと毎回見ているNHK大河ドラマ『青天を衝け』。 これまで、4回目の日米和親条約、8回目の日米修好通商条約、9回目の桜田門外の変、10回目の坂下門…
公武合体 桜田門外の変以降、さまざまなところで攘夷の嵐が吹き荒れていた。 また、井伊直弼が勝手に通商条約を結んだことにより、攘夷派の幕府・開国派への反感も高まっていた。 井伊直弼の後に老中になった安藤信正と久世広周は攘夷の熱を抑えるために、 「まずは幕府の威信を回復させないと!」 と考え、「公武合体」を画策することに決めた。 公武合体とは、 幕府と朝廷が一体となって国難にあたり、混乱した政局を安定させようという方法だ。 幕府は朝廷の関係を強めるために孝明天皇の妹である和宮親子内親王を将軍徳川家茂に嫁がせようと何度も画策するが、拒否される。 しかし、幕府は朝廷に「攘夷の実行」を約束することにより…