梅ヶ丘のアパートは、小さいけれど居心地がよかった。絵の具と油の匂いがしていて、雨の日はそれが一層つよくなる。窓からみえる目の前の公園の、長い階段と濡れそぼつ枯れ木。ほんとうに死にたくなるような雨だった。あの冬のあの雨。私はあの部屋にとじこめられていた。それまでの幸福な記憶に、信じられないほどあとからあとから湧きでて溢れた愛情と信頼と情熱に。一歩も外にでられなかった。おいで、と、順正は言ってくれたのに。おいで、と、採掘したばかりの天然石のような純粋さと強引さ、やさしさと乱暴さで。(江國香織『冷静と情熱のあいだ Rosso』角川書店、1999) おはようございます。辻仁成さんと江國香織さんの往復書…