岐阜県岐阜市加納にあった城。加納藩の藩庁だった。
岐阜城に引き続き、岐阜駅前の加納城へ。岐阜城の廃城後に、天守や石垣が移されたと伝わっています。 明確な遺構は住宅街に公園として残された本丸の周りだけですが、その本丸には立派な石垣が残されていて、往時を伝えてくれています。 お城:加納城 岐阜県岐阜市HP:オフィシャルなものは見つけられませんでした。訪問日:2020年10月 概要 訪問記 感想 アクセス 概要 中世加納城は1445年に斎藤利永によって築城されますが、1538年に廃城となりました。 関ケ原の戦い後の1601年、徳川家康の命により中世加納城の跡地に築城されました。初代城主、奥平信昌のあとは譜代大名が入れ替わり、明治維新の際に廃城となり…
『星の巡礼 中山道てくてくラリー・550km徒歩旅行』Ⅱ <同志社ローバースカウト創立50年記念事業 ー 通信記録・旅日記> ■ 中山道てくてくラリー出発式・日本橋 ■ 新島襄先生感謝献花式・安中教会 ■ 中山道てくてくラリー後半①<須原宿39>➡<鳥居本宿63> 《前半報告書》にもある様に、日本橋(0)を出発し、須原宿(39)で<中山道てくてくラリー>を一時 中断、まず東北大地震のため延期されていた東京日本橋での<同志社ローバースカウト50周年記念 「中山道てくてくラリー」>出発式に参加した。 その後、校祖 新島襄生誕の地・安中市にある安中教会での「50周年記念 新島襄先生感謝献花式」に出席…
プチ大都会である岐阜シティの魅力を余すことなく伝えるべく、岐阜市を細分化して町別に紹介する「ぎふ町旅」シリーズ。こんな画期的な企画をタダでやってあげるこの僕をもっと評価してやったらどうなんだ。ってことで、第100弾は城東通だよ。岐阜城ではなく加納城の東にある通りの町だから城東通。と思う。城東通の南端から北に向かって右、左、右と丁寧かつ規則正しく足を踏み込んで歩いた。その途中にある『おかだ屋』でモッツァレラチーズをトッピングした鉄板ナポリタンを食べたらあーた、想像以上に美味しいじゃないの。会計の際に次から利用できる50円OFFのパスポートをもらったことだし再訪は必至だろう。その後、引き続き城東通…
長良橋から笠松に向かって歩いている時に、赤レンガの立派な門を見かけました。 岐阜市立加納小学校の正門です。 校章が渋い。 加納の地名の頭文字の周りには、加納天満宮の梅。 文武両道を表現。 「ぎふ・いざナビ」によると、こちらの門は、1899年(明治32年)加納城の三の丸の跡地に建てられた旧師範学校の正門。 地元では“赤門”と呼ばれているらしい。 1995年(平成7年)には「岐阜の宝百選」に選出。 当時は岐阜市内最古の正門でした。 元々あった正門は2016年(平成28年)に取り壊され、新しく建て直されました。 壊す前の正門の写真を撮っておきたかった。 「ぎふ・いざナビ」では加納藩初代藩主・奥平信昌…
岐阜県岐阜市を流れる長良川。 金華山の上にはキムタクも訪れた岐阜城。 5月11日から10月15日まで長良川鵜飼が開催されます。 鵜飼乗り場の近くにあるポケットパーク「鵜かがり」 今回はこちらから御鮨街道を歩いてみます。 江戸時代の1615年(元和元年)河崎喜右衛門が「御鮨所」を命じられました。 鵜匠が鮎を納め、御鮎所で作られた鮎鮨が将軍家に献上されました。 1619年(元和5年)に岐阜町は尾張藩領になり、1622年(元和8年)以降は鮎鮨は藩の献上品に。 1862年(文久2年)まで献上が続きました。 鮎釣りの季節がきましたね。鮎に米を詰めて熟成させたなれずしの一種・鮎鮓(あゆずし、鮎鮨とも)。長…
長い期間をすごした浜松城から、なぜ家康は駿府に移ったのか。そしてどのような城を築いたのでしょうか。さらに晩年も過ごした駿府は家康にとってどのような城なのでしょうか。天守台の発掘調査や門や櫓の復元によって新たな事実が判明している駿府城で家康の考えをのぞいてみましょう。 家康にとっての駿府城 家康は駿府城を築城し、晩年を駿府で過ごした 駿府城と家康のかかわりは二つあります。一つは駿府城を築城した天正期と、もう一つは将軍職を譲った後の1607年(慶長12年)以降(慶長期)です。現在、駿府城公園にみられる堀をはじめとする遺構や復元された門・櫓などは慶長期以降のものです。慶長期以降のものは後述するとして…
岐阜と言っても結構広い県ですから飛騨なのか美濃なのか西濃なのか中濃なのかウスターなのかで印象は変わりますし、とんかつソースがドロっとしてて好きなんだけどウスターのサラッと感も好き♡ 岐阜で思い浮かぶものだと先ずは長良川、鵜飼い、関ケ原、下呂温泉、高山、白川郷、郡上八幡、多治見、関の刃物、ヤイリギター、明宝ハム、岐阜公園、あのコ、など。 2008年にムーンライトながらで出かけて高山本線の白川口駅で降りてチョロっと釣りなどしましたが何も釣れずに昼過ぎに駅に戻って岐阜駅に行こうと列車を待ちながら一服してたら特急ひだが来て乗らず、違うホームに止まっていた下呂方面行きが出ると向こうに岐阜方面行きが止まっ…
プチ大都会である岐阜シティの魅力を余すことなく伝えるべく、岐阜市を細分化して町別に紹介する「ぎふ町旅」シリーズ。こんな画期的な企画をタダでやってあげるこの僕をもっと評価してやったらどうなんだ。ってことで、第75弾は加納長刀堀だよ。長刀は「なぎなた」と読んで、あの長い刀の武器のことだよ。加納城に長刀の形をした堀があったことから名付けられた加納長刀堀を南から北へクリーム号で駆け抜けた。いい。それっぽい住宅街も実にいい。唯一の飲食店である『ほていや』で腹を満たすと加納城にある公園で近所の子どもたちとトンボを追いかけた動画はご覧のとおりです。 ほら、ご覧。これは「大エビフライとヒレカツ定食」で茶碗蒸し…
中山道加納宿は加納天満宮の由緒がきに、つぎのようにかいてある。 加納天満宮 ご鎮座1445年、斎藤利永が加納の東南沓井郷に沓井城(旧加納城)をきずき、ほの守護神として天満宮を勧請した。記録によれば創始はさらにふるく、ほれより100余年以前からすでに吉田郷(広江川の北方、上加納の地)に祭祀されとったという。 ほのあと、城主斎藤利政(斎藤道三)が稲葉山城にうつり沓井城は廃城となったが、天満宮は住民たちによってあつく奉斎されとった。 1600年関ケ原戦后、徳川家康は凱旋のおり、岐阜城(旧稲葉山城)を廃し、加納城を構築した。ほのさいに天満宮が城郭内にはいったので、あたらしい加納城鎮護のかみとして160…
中山道加納宿まちづくり交流センターに「近世加納城・じょうかまちのたんじょう」って展示資料があって、つぎのようにかいてある。 近世加納城・じょうかまちのたんじょう家康はなぜ加納をえらび、しろとまちはどのようにきずかれたか? 1600年の関ケ原合戦に勝利した徳川家康はこの地にあらたなしろを建設します。1500年代末の加納には東西道路(のちの中山道)や南北道路(のちのおすし街道)がとおり、交差点付近には広江(ひろえ)、沓井(くつい)などのむらと「加納町」があったと推定されます。ほいで、ほのみなみには守護代斎藤氏の中世加納城のほり、土塁がのこっておりました。幹線道路やまちが機能し、しろあとがのこされと…
2022年5月17日、かようび、平日。中山道は加納宿(かのうじゅく)にいってきた。現地までは名鉄電車でいきかえり。現地は、電車をおりた名鉄岐阜駅からおすし街道をとおって加納宿いり。ほっから中山道加納宿まちづくり交流センターをたずねたり、加納天満宮におまいりしたり、清水川のみずべ空間をたのしんだり、うなぎのにもんじやでひるめしをくったり、ひがしりっきょうをたずねたり、ほのついでにねじりまんぽを発見したりしてきた。 (名鉄でふるいから岐阜まで)(おすし街道から加納宿にはいる)(中山道加納宿まちづくり交流センター)(加納天満宮)(清水川のみずべ空間)(うなぎのにもんじや)(ひがしりっきょうをたずねて…
大軍に押しつぶされ、兵糧攻めに落ちるばかりが落城ではない。クーデターによって乗っ取られてしまった城、というのもある。織田信長が安土城に移るまでの間居城とし、「天下布武」を進めるための拠とした美濃の岐阜城(岐阜県岐阜市)は、金華山という山に答え立つ山城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 ところがこの斎藤氏は道三の…
■岐阜市駅の南部周辺。 加納という地名が定着している。古くからあるような整備された地域で、歴史の感じる場所。 現在は富裕層が住む閑静な住宅街?というイメージ。土地は狭めでステータスと安心感を感じる地域。江戸時代の町屋、宿場町の名残から密集したレイアウト。 ■中山道(なかせんどう):三条大橋⇒日本橋。京都から信濃を経由して武蔵などの東国を結ぶ街道。1600年、関ヶ原の戦いで天下をとった徳川家康が天下統一を図る需要な手段として、戦乱で荒れた全国の道の整備にとりかかった。約534km、69宿あり。峠道が多く、人馬の往来は困難だった。 中山道の役割・目的:参勤交代、茶壷道中(=ちゃつぼどうちゅう、将軍…
そこで第14回は『お弁当&お惣菜 REGOLO』の「REGOLO弁当」、君に決めた!その前に近くの『かなんカフェ』でモーニングサービスを満喫した。いよいよ今回の主役の弁当を食べるわけだが、せっかくなので加納城の満開の桜を愛でながらじっくりまったり味わった動画はご覧のとおりです。 [動画内検索タグ]ウチ店,かなんカフェ,お弁当&お惣菜 REGOLO,日替わり弁当,加納城,テイクアウト ■YouTube【砂漠に水】https://www.youtube.com/@sabakunimizu
中山道加納宿まちづくり交流センターに「近代加納の土地利用」って展示資料があって、ほんなかの地図にこの周辺の東海道線と名鉄名古屋本線のえきがのっとった。地図は1920年のもんで、いまとはちがう点もいくつかあってとっても興味ぶかい。 【東海道線】 まずもって、線路自体がいまよりきたのほうをとおっとった。 初代岐阜駅はいまよりだいぶ東北にあった。当初加納駅をなのって、すぐに岐阜駅にかえとる。 2代岐阜駅はいまの名鉄岐阜駅のへんにあった。 3代岐阜駅がいまのえき。線路がみなみのほうにつけかわって、この位置にできた。 【名鉄名古屋本線】 初代名鉄岐阜駅はいまのJR岐阜駅のすぐ東北にあった。 2代名鉄岐阜…