よしもと・たかあき(1924〜2012) 詩人、文芸評論家、思想家。1924年(大正13年)11月、東京・月島生まれ。東京工業大学電気化学科卒業。主著に『転位のための十篇』『固有時との対話』『共同幻想論』『マス・イメージ論』ほか。 名前の『隆明』は本来は「たかあき」であるが多く「りゅうめい」と呼ばれる。小説家・よしもとばなな(吉本ばなな)は次女。 数年前、伊豆で海水浴をして溺れかけた。 2012年3月16日、肺炎のため死去。
山人にさらわれて妻にされた女は、村の猟師に山人の恐ろしさを訴えるが、じぶんは帰ろうとしない。女はじぶんを禁制をやぶったよそものとしてかんがえ、ふたたび村に戻れないのだというたてまえで、いつも距離をおいて村の猟師に対する。さらわれた山人の妻と、出遇った村の猟師のあいだのこの異邦人感覚にもにた距離感が、この種の山人譚にリアリティをあたえている。 ここまできて、わたしたちは『遠野物語』の山人譚が語りかける〈恐怖の共同性〉ともいうべきものが、時間恐怖と空間恐怖の拡がりに本質的に規定されていることを知る。又聞き話とそうだ話とが手をのばせる時間的なひろがりは、ここでは百年そこそこである。また空間的なひろが…
佐久間庸和です。わたしは一条真也として、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「唯葬論」という言葉を取り上げます。 『唯葬論』(三五館) 拙著のタイトルではありますが、「唯葬論」は単なる書名ではありません。それは、1つの思想なのです。わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であり、発展基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。 「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありま…
仏教で成仏や浄化という言葉があるのに、何故キリスト教にはないのか。 一方的に悪魔は闇落ちで最後は地獄行き、それでおしまいなんですか、と。 実際にこのせめぎ合いの感覚を持ったことがあります。私が過去に何度か悪魔祓いを実際にやった時、それぞれ欧米出身のラテン語もできる年配の神父さんがアシストに付いてくれました。被験者の言っている悪魔らしきもの、その人とは違う人格のものが叫んでいる中で、「このままでいるのがほんとに苦しい」と言っていたんです。信仰における祈りにおいて自らの苦しさを吐露したんです。普段のその人は、実に穏やかな人でしたが、儀式の中でギャーギャー喚いている声の主はそう言うわけです。だったら…
空っ風で天日干し 籾摺り 玄米にする 優れモノ自動選別計量機 パックメイト 取説見ながら コンバイン掃除 ニトリ ベッドソファ サイドラック付き 104900+送料3300 難なく組み立てるも ダンボール・包装フィルムの始末に難 +3300をケチッタ ☆☆☆☆ 📖 紙パンツの 吉本隆明 時代に翻弄される 仁学と 優 勇太 「半暮刻」 : 翔太と海斗だった
もうひとつのカップラーメンは、長方形の紙器(本当は紙の器ではないが、紙器と呼んでおく)で、焼きそば的にソース味に仕上げられたものだ。量がやや多めで、若い頃はよかったが、いまは負担になる。けれども、この量が多いというところに、このカップラーメンの個性があるのだと私は思っている。 以前、知人の結婚式に招かれたとき、この娘さんは食べっぷりが立派だ、と言ったことがある。 それがどう受け止められたのかは知らないが、その娘さんの、食べることに関して、何度か素晴らしい風情のところを目撃したことがあった。 テレビ番組でいうと、明石家さんまが大勢の芸能人を前にした司会の重責を終えて、ほっとしたところで一杯の水を…
行方不明者は(これは今の私に当てはまることだ) 陽の当たる人生航路に姿をあらわす可能性もあるので(フーコーは自身をふりかえりながら、わが身の快癒を感じたとき、「白日のもとポーランドの自由に」 回帰した、と記している)、一般人は特別な危険にさらされることになる。そこで知っておくべきなのは――それに、これは毎日のように確認されることでもあるふたたび姿をあらわすかもしれない行方不明者の特異なあり方が、当の行方不明者に対して一種の危機感と、後ろめたさをいだかせるということだ。一般人は刑事犯や、強制入院させられた殺人者の社会生活を完全に絶つことのできない行方不明なる事態に対して、ひそかな懸念を覚えるから…
話半分で読み飛ばしていただいてかまわないが、うちの家族は全員”スピリチュアル"な人々だった。スピリチュアルと言うと、UFOや霊が見えるだとか、霊感が強いとか、アヤシィ印象を受けるが、現代的な表現をするならば、一種の〝高機能自閉症 (サヴァン症候群)"だ。たぶん人間は、縄文期頃までは、普通に行使していたはずだ。逆にその能力が劣っていれば、生き延びることすら困難だっただろう。弥生時代以降、支配する政権が発達し始めた頃から、人々は”お上”にお任せで、自分で物事を判断しないようになり、徐々にそんな能力は必要なくなり、忘れられていったのだろう。 妹などは、かなりスピリチュアル系の小説やエッセイを書いてい…
じぶんにとって〈他者〉が禁制の対象であったとすれば、この最初の〈他者〉は〈性〉的な対象としての異性である。そしてじぶんにとって禁制の対象が〈共同〉であるとすれば、この〈共同〉にたいするじぶんは、〈自己幻想〉であるか性的な〈対幻想〉であるかいずれかである。 じぶんにとってじぶんが禁制の対象である状態は、強迫神経症とよばれているもののなかにもっとも鮮やかにあらわれる。この状態はすべての心の現象とおなじように、例外なく共同の禁制と逆立してあらわれるはずである。けれど〈正常〉な個体は大なり小なり、共同の禁制にたいして合意させられている。そしてこの合意は黙契とよばれるのである。黙契でも対象になるものはか…
それから『言語にとって美とはなにか』に関して、私は「自己表出」という言葉が非常に誤解をされているんじゃないかと思っています。自己表出の「自己」というのは、(私)ではないんですね。あるところで、吉本さんが「自己表出」という言葉は「自体表出」、自体というのは物事それ自体という時の「自体」ですね。「自ずから」の「体」で、「自体表出」でいいんだ、といっております。 ――高橋順一他「「それぞれの吉本隆明」と吉本さんがやり残したこと」 わたくし、ずっと、「心的現象論序説」が、「共同幻想論」のずっと後の作品だと勘違いをしていた。吉本というのも作品を終わらせられないタイプで、案外書かれた順番に読んだ方がよい人…
この人の「共同幻想論」は昔読んだ。「言語にとって美とはなにか」というこの本もたぶんタイトルは何度も見たことがあるはずだ。しかし、今まで買ってもいなかったのは、この人の本の難しさを知っていたからだろう。今回これを読むことになったのは、古本屋に何か読む本を買おうとして入り、絶対何かは買って帰ると思って本を探したが、結局この本しか買う気にならなかったという事情による。しかも、この本は「Ⅰ」と「Ⅱ」に分かれており、その古本屋は揃いでしか売らないような値付けがされてあったので、「Ⅰ」「Ⅱ」とも買うことになった。 やはり難しい。何を言っているのかわからないのだ。すべてがわからないというのでもないのだが、か…