プロ野球選手・指導者。
右投右打、ポジションは捕手→外野手。背番号は63→33→12→55→38番。
1970年6月6日生まれ、和歌山県日高郡川辺町(現・日高川町)出身、血液型B型。
日高高校中津分校から1988年、ドラフト3位で西武ライオンズに入団。
プロ野球初の分校出身選手として注目を集めた。
入団当初は捕手だったが、1990年、打撃を活かして外野手にコンバート。
芯に当たればスタンドインという持ち前の長打力で、1994年頃から試合出場の機会を増やす。
また、1996年にはシーズン16盗塁を決めるなど、意外に足も速い。
1996年には同郷の東尾修監督の下、左翼手に定着。シーズン序盤から打ち始め、28本塁打を記録。この年には自身初のオールスター出場を果たした。
しかし、1997年に怪我をしてからは好不調の差が激しくなり、定位置獲得⇔代打の繰り返しで成績が安定しなかった。
2002年オフ、椎木匠との交換トレードで千葉ロッテマリーンズへ移籍。
移籍後は主に右の代打として出場。
2004年9月12日、プレーオフ争いをしていた北海道日本ハムファイターズの井場友和からサヨナラ本塁打を放ち、一時的にチームを3位に浮上させる。
2005年10月17日、プレーオフ第2ステージ第5戦では、7回に代打で出場。三瀬幸司から左安打を放ち、逆転劇へ繋げた。
ちなみに清原和博、大塚光二とは親友関係である。
2006年10月2日、千葉ロッテマリーンズから戦力外通告を受け、引退
2010年、中日ドラゴンズの二軍コーチに就任。