会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。 まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかるべきでしょう。いくら慶喜に懇願されても断り、家臣と共に粛々と大阪城を撤退すべきでした。そうしていたら神保修理も死なずに済み、会津藩のその後の運命も変わっていたかもしれません。ところが現実には家臣を見捨てて逃亡し、その責任を神保修理に転嫁し切腹させたのです。その点、主君に家臣の恨みが向かわないようにすべての責任を被って粛々と切腹を受け入れた神保修理は立派でした…