天正壬午の乱は、武田家の滅亡・本能寺の変による信長横死後の武田遺領を巡る争い。
甲斐武田氏は武田信玄・武田勝頼の頃に本国の甲斐のほか信濃国、上野国西部・駿河国と数カ国規模の領国を誇るが、勝頼の頃には1575年(天正3年)の長篠の戦いにおいて織田信長・徳川家康の連合軍に大敗する。その後、勝頼は御館の乱を経た越後上杉景勝と同盟を結ぶが相模の北条氏と敵対し、勝頼は常陸の佐竹氏らと同盟を拡大し北条氏を牽制しつつ、信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正10年3月に織田・徳川軍の甲斐侵攻に対して穴山梅雪や小山田信茂ら家臣の離反を招き滅亡する。
武田家の滅亡後、甲斐は織田家臣河尻秀隆に与えられ、河内領は穴山梅雪に安堵された。梅雪は家康とともに安土城を訪れていたが、天正10年6月2日に本能寺の変で信長が明智光秀に討たれ、家康と別れた梅雪は宇治田原において客死した。
6月18日に河尻秀隆は一揆により殺害され甲斐や武田遺領は無主状態となり、徳川家康は三河岡崎に戻ると軍備を整え、穴山旧臣を傘下に7月9日には甲府に着陣する。一方、相模の北条氏は信濃の諏訪頼忠を味方に新府・若神子において対峙するが、8月19日には黒駒の戦いで敗れる。10月29日には徳川・北条間で和睦・同盟が成立すると乱は終結し、家康は甲斐・信濃を確保する。
家康はこうして五カ国を領する東国の大勢力となり、明智光秀を破り織田家において台頭した豊臣秀吉と対峙し、1584年(天正12年)には小牧・長久手の戦いが行われる。
また、武田遺臣のうち真田昌幸は越後上杉氏に属し信州上田において自立し、独自の勢力となった。
武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望―天正壬午の乱から小田原合戦まで