1507(永正4)年6月に畿内の覇者であり幕政を取り仕切った細川政元が、細川京兆家の後継者を巡る家中対立が原因で暗殺されました(永正の錯乱)。 政元の暗殺後、細川家中は阿波守護家出身で三好之長ら阿波衆の支持を受ける澄元と、従来の細川京兆家重臣である畿内国人衆の支持を受ける高国という政元の二人の養子を担ぐ二派に分裂。 澄元は11代将軍・足利義澄、高国は10代将軍・足利義尹をそれぞれ戴いて相争う状況になります。 この混乱の中、細川政権のもと大和を支配した赤沢朝経、長経父子が相次いで戦死し、領地を追われた筒井氏、十市氏、箸尾氏ら大和国人衆も、相次いで大和の故地へ復帰しました。 一方、河内では畠山尚順…