第7代の天皇。 大日本根子彦太瓊天皇、大倭根子日子國玖琉命とも。
大日本根子彦太瓊天皇(孝安天皇)の太子。母は押媛、天足彦國押人命の女なり。 子は、日本根子彦國牽天皇(孝元天皇)、倭跡跡日百襲姫命、彦五十狹芹彦命、倭跡跡稚屋姫命、彦狹島命、稚五彦命。
四隅突出型墳丘墓の発展と衰退 出雲地方で発展した独特の形をした四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)ですが、その原型は貼石(はりいし)方形周溝墓(四角い墓の斜面にびっしり石を貼り付ける)で中国山地(三次)で誕生しました。 四隅が足のように飛び出したのは1世紀頃になります。 そして伯耆(鳥取)方面から出雲の東部へと伝わっていきました。 三次盆地は当時、東西南北の交易ルートが交わる一大物流拠点で日本海側と瀬戸内側を結ぶバイパスの中継地点であったようです。 三次盆地の矢谷墳丘墓(やだにふんきゅうぼ)からは、吉備のシンボルである特殊器台や、ローマガラスが見つかっています。(紀元2世紀後半…
記紀は天皇の正統性を神話と歴史を通じて示し、国家の統一と律令体制を支える思想的基盤を築くことに重きをおいて書かれています。663年の白村江の戦で唐新羅軍に大敗し、元々人気のなかった天智天皇が671年に崩御、672年の壬申の乱を経て天皇となった天武天皇は、圧倒的な国力を持つ唐をけん制するため 中国の正史に習い、自国の起源や正統性を説明する「国史」を編纂する必要性がありました。そして専制政治体制の国家設立のため、人心を一つにする必要があったわけです。 よって国内向けに編纂されたのが、『古事記』です。天武天皇崩御のため完成したのは元明天皇の時代でしたが、元明天皇が下詔してから4か月ほどで完成したとい…
西出雲王国侵攻 キビ王国の西出雲王国侵攻の目的は奥出雲で採れる鉄だったそうです。 東出雲王国と和睦したキビ軍勢は、母塚山(ははつかさん)の東から福島、福岡へと南下しました。日野川岸の黒坂から西に向かい生山に達しました。 生山で西出雲国の大軍に遭遇し、激戦となります。南方の大倉山にいた神門臣家の軍勢が大挙してキビ軍勢を阻みました。 この辺りには、住み着いたキビ人の伝説が残っているということです。 キビ軍は、イズモ兵が大勢隠れていた山に「鬼林山」(きりんざん)という名前をつけたそうです。 キビツ彦たちは徐福に習って、星神を拝みました。その山には「妙見山」(日南町南端)の名がつきました。妙見とは、道…
フトニ勢の播磨侵攻 出雲口伝では、第一次モノノベ東征で大彦(長髄彦)がヤマトを去った後、異母弟のフトニが大王となります。(孝霊天皇) この頃は2世紀後半頃で、1世紀頃に朝鮮半島からやってきたヒボコ勢が但馬から播磨に進出している状態であったため、フトニ大王は播磨地方の侵略を息子達に命じました。(ヒボコについては以前のブログ【出雲王国とヒボコ】をご覧ください) この息子達が桃太郎のモデルになったイサセリ彦(大キビツ彦)とワカタケ彦(ワカタケキビツ彦)の兄弟です。 播磨に住んでいたヒボコ勢の多くは、イサセリ彦とワカタケ彦の大軍に攻められ、淡路島に逃げたそうです。 ヒボコの子孫である出石神社の旧社家で…
欠史八代の天皇の宮跡・御陵めぐりは全部巡ってこれで一応終了(9代の開花天皇絡みは まあ奈良市にでも行った時の楽しみにww) 御陵として見たとき 容姿のいいのは 7代孝霊、8代孝元の天皇陵だな!残りのは まあ平凡! 神武陵のミニチュア版という感じ! (正確な表現すれば 他のを参考に神武陵は造られ大きいだけ!。本来は 今の綏靖陵が神武のだったとか、神武陵造成で綏靖にしたとかいうような話も見聞きしたなww)宮跡で背景がお気に入りなのは 2代綏靖 4代威徳の宮跡 そしてこの7代孝霊かなw 総括で一記事でも作るかww 倭の六つの御縣の二つ いやあ びっくり! 十市の後に寄ったものだからその落差にびっくり…