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宇喜多秀家

(一般)
うきたひでいえ

生い立ち

 1573年(天正元年)宇喜多直家とお福の方の次男として生まれる。直家は浦上家の一家臣だったが、岳父や仇敵などを暗殺し、主家よりも強い勢力を持った上で下克上をし備前国(現・岡山県南東部)・美作国南部(現・岡山県北東部)・播磨国西部(現・兵庫県西南部)を領する戦国大名にのし上った。
 1576年(天正4年)織田信長が中国征伐命を出し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が侵攻してくる。直家は始め毛利家に付くが、折りをみて信長勢に帰属。その際に人質として嫡子の八郎(秀家)を姫路城の秀吉のもとに送り、直家は毛利勢と激しい攻防戦を繰り返すが、1582年(天正10年)病により生涯を閉じる。これにより秀吉を後見人として八郎が家督を相続した。秀吉の備中高松城攻めに組み込まれたが、八郎は幼少のため叔父の宇喜多忠家が代理として軍を率いた。
 1582年(天正10年)明智光秀謀反のため本能寺で信長が死去する。主人の弔い合戦のため秀吉は毛利輝元と和睦し、八郎は備中東部・備前・美作を領する大大名にのし上り、毛利家の監視役を務めることとなった。
 1585年(天正13年)年3月、13歳にて元服するにあたり、豊臣秀吉から一字賜って秀家と名乗り、従五位下侍従に叙せられる。同年四国征伐の豊臣軍に随従し、初陣も果たした。
 1586年(天正14年)、前田利家の四女・豪姫を娶る。豪姫は利家夫妻と懇意であった秀吉に養女として出され、大切に育てられていた。このため外様ではあるが、秀家は親族のような扱いを受けている。
 1587年(天正15年)の九州征伐に随従し、島津勢と戦う。
 1590年(天正18年)、北条攻めの小田原征伐に随従。
 1592年(文禄元年)文禄の役では八番隊の大将として出陣する。碧蹄館の戦いで先方隊大将の小早川隆景、一番隊の立花宗茂らとともに数で勝る明軍を迎撃し撃破した。この戦いで明軍は勢いを削がれ、石田三成や小西行長が明と講和交渉を始める。勢いにのった日本軍は幸州山城攻防戦で権慄率いる朝鮮軍と対峙したが、攻略を諦めて撤退した。しかしこの後権慄も日本軍に耐えられず幸州山城をでている。日本軍も明軍も戦争に行き詰まり、休戦期に入る。日本・明双方の講和担当者が和平を穏便に進めるため、秀吉には明が降伏したと報告をし、明には秀吉が降伏したと報告された。これにより文禄の役は幕を閉じる。
 1594年(文禄3年)、参議から従三位、権中納言に昇進する。
 1597年(慶長3年)明からの使者により、先の講和が偽造だったことが発覚し、怒った秀吉が再度出兵を命令。秀家は再度出兵し、1598年(慶長3年)に帰国、秀吉より27歳の若さながら徳川家康・前田利家らとともに五大老の一人に任命される。同年8月・秀吉の死去により慶長の役の幕が閉じられる。
 1599年(慶長4年)、宇喜多家の家中に内訌が起こった。
度重なる軍役によって、働き手不在による農地の荒廃の中で過酷な地検と徴税徴収政策は、領主や土豪の反発を買ったこと、豪姫の病を治すべく日蓮宗の僧に祈祷をさせたが、効果がなかったので秀家は怒り、家中に命じて、日蓮宗を信仰しているものはキリスト教に改宗するように命じたこと、中村次郎兵衛や長船綱直らにたいする他の重臣の不満が原因。
秀家は騒動の首謀者を戸川達安として暗殺を謀るが、大阪玉造に立て篭もってしまい、両者が一触即発の事態になったところを徳川家康の調停で回避された。しかしこのお家騒動で宇喜多家の多くの武将が去り、戦力は一挙に失われ軍事的・政治的衰退につながった。(※宇喜多騒動)

関ヶ原の戦い

 1600年9月14日午後7時頃、大垣城を出て関ヶ原に向かい、秀家は満天山の前に陣した。
 15日午前8時近く、松平忠吉と井伊直政が宇喜多の陣営前にいきなり鉄砲を撃ちかけ、これに怒った福島正則が突撃を命じたのを合図に、東軍の攻撃開始。
 秀家は、全軍1万7千を5段に分けて果敢に戦う。明石全登を筆頭に長船吉兵衛、宇喜多源三兵衛、浮田太郎右衛門、延原土佐らが、指揮に当たる。
 頃合いを見て、福島隊に鉄砲を浴びせ、ついで槍を入れ、騎馬隊を馳せ向かわせる。福島隊を引き寄せて、これを突き崩す見事な戦いぶり。
 この時点では、福島隊が劣勢であったが、加藤嘉明(かとう よしあきら)隊、筒井定次(つつい  さだつぐ)隊の横から襲撃を受け踏みどどまる。
 福島隊が突入すると、宇喜多隊の前衛隊長明石全登は、8千の軍団を率いて反撃。両家の旗印が入れ混じって、追いつまくりつ激戦が続けられた。
 「敵味方押し分けて、鉄砲を放ち、矢たけびの声、天にひびかし、地をうごかし、黒煙立ちて、日中もくらやみとなり。敵も味方も入り合い、干戈をぬき持ち、おいつまくりつ攻め戦う」の戦況。
 その後、小早川秀秋隊の裏切りによって、宇喜多隊は崩れる。
 敗勢が決定的となったとき、秀家は小早川勢への突撃を命ずるが、明石全登の説得により進藤三左衛門、黒田勘十郎の二人を連れて伊吹山に逃れる。その後、伊吹山を左手に見ながら北上、美濃国の粕川沿いに移動したと考えられる。
 16日、美濃国白樫村在住の五郎右衛門という落ち武者狩りに発見されるが、彼を説得し屋に匿われる。
 進藤、黒田は秀家生存の報を豪姫に伝えることに成功。直ちに、難波助右衛門らの家臣が美濃へ派遣され、東軍の探索の目を逃れ、秀家を有馬湯治の病人に為装して脱出、大阪天王寺へ潜伏させる。
 1601年(慶長6年)、秀家は黒田勘十郎を伴い薩摩へ入国。進藤三左衛門は、宇喜田家の宝物国次の太刀とともに、本多忠勝のものへ出頭。 秀家は、美濃山中で自害、遺骨は高野山へ埋葬した旨を報告し痕跡を消そうとしている。秀家は、島津氏の待遇を受け、名を「休復」と改め大隅国牛根郷内で逃亡生活を送る。

関ヶ原後

 1603年(慶長8年)に徳川家と島津家の和睦成立に伴い島津家久に付き添われ出頭、駿河国久野へ幽閉される。島津氏、前田氏などの助命嘆願にとり、1606年(慶長11年)、八丈島への流刑が決まる。長男・秀高、次男・秀継、浮田次兵衛、甲田太郎兵衛門、寺尾久七、村田道珍斎助六らとともに、島へ渡った。 秀家は「久福」と称して流人生活を送り、1655年(明暦元年)、84歳で没すた。
豪姫の戻った加賀藩から八丈島へ一年おきに米などの物資が送られ、幕末までこの援助は続いた。


関ヶ原前の所領は、備前・美作・備中東半国・播磨二郡の計約57万石。

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