群馬県富岡市にあった日本初の器械製糸工場。
1872年11月4日に操業を開始した官営の工場。1987年3月に操業停止。
2005年、敷地全体が国指定の史跡に指定され、翌年2006年には初期の主要建造物が重要文化財に指定。
2014年4月25日、ICOMOSが「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界文化遺産に登録勧告した。2014年6月、世界文化遺産に登録された。
江戸時代末期に鎖国政策をやめ、諸外国との貿易を始めた当時、日本の最大の輸出品は生糸だった。輸出の急増によって需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題がおき、日本の生糸の評判が下がっていた。
また、明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進めるにあたり、そのための資金を集める方法として、生糸の輸出が一番効果的だと考えていた。
そこで政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者を育成するため、 洋式の繰糸器械を備えた模範工場を造ることにしたのである。
1870年、横浜のフランス商館に勤務していたポール・ブリュナ(Paul Brunat)らが 武蔵・上野・信濃の地域 を調査し、上野の富岡に場所を決定した。その理由としては、以下のようなものであった。
富岡製糸場は、殖産興業を推進するために国が建てた大規模な建造物群が現存する産業施設である。繰糸場は長さ約140.4m、幅12.3m、高さ12.1mで、当時、世界的にみても最大規だった。
工場建設は1871年から始まり、1872年7月に完成、10月4日には操業が開始された。繭を生糸にする繰糸工場には300人取りの繰糸器が置かれ、全国から集まった工女たちの手によって本格的な器械製糸が始まった。
外国人指導者が去った1876年以降は日本人だけで操業された。官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではなかったが、高品質に重点を置いた生糸は海外でも好評だったといわれる。
器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされた頃、官営工場の払い下げの主旨により、1893年に三井家に払い下げられた。その後、1902年には原合名会社に譲渡され、御法川式繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の統一などで注目された。
1938年には株式会社富岡製糸所として独立したが、1939年には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併された。その後、第二次世界大戦中・戦後と長く製糸工場として活躍したが、生糸値段の低迷などの理由で、1987年3月ついにその操業を停止した。
しかしながら、その後も場内のほとんどの建物は大切に保存されている。
繰糸場、東・西繭倉庫、 外国人宿舎(女工館、検査人館、ブリュナ館)等の主要建物(国指定重要文化財)は、ほぼ創業当初の状態で良好に保存されている。明治政府が造った官営工場の中で、ほぼ完全な形で残っているのは富岡製糸場だけである。