東京都立小石川中等教育学校。旧制府立第五中学校を前身とする東京屈指の名門進学校。所在地は文京区本駒込。
創立者は大正時代を代表する自由主義教育者の伊藤長七。建学の精神は、彼が理想とした「科学の道」。「立志・開拓・創作」を三校是とする。
長野県諏訪郡出身の伊藤長七は、長野師範学校を卒業後に地元の小学校に就任すると、当時の権威主義的な教育とは真逆の、自由で創造性を発揮する教育を実践。地元教育界からの圧力もあって数年たらずの在籍であったが、後世にまで語り継がれる数々の逸話を残し、信州の教育に多大な影響を残した。
信州を去った長七は東京高等師範学校へ入学。卒業後は同校附属中学校で教鞭をとった。1912年、東京朝日新聞に掲載された「現代教育観」の論説がたちまち各界で大きな話題となり、それが長七の筆であることが分かると、後藤新平や沢柳政太郎の助言もあって、府立五中の初代校長に大抜擢された。
長七は「科学の道」を建学の理想に据え、生徒を紳士として扱い、体験を重視し創造性を発揮させるなど、常識を打ち破る教育を次々と実践。教育界から異色の中学校として注目され、たちまち人気校と化していった。
小石川の三校是となっている「立志・開拓・創作」は、長七が生徒に熱心に説いていた言葉であり、長七自身が作詞した校歌の歌詞にも盛り込まれている。また、長七が打ち立てた、受験科目に留まらず広い教養を身につけ、深い思考力を養うという「全人的教養主義」は、今日は「小石川教養主義」という言葉で受け継がれている。
1930年、伊藤長七は53歳で逝去。葬儀は「学校葬」として挙行された。長七の死後、諏訪市に「伊藤長七頌徳公園」が、学校内には長七の胸像が建立された。長七が打ち立てた建学の精神は、中高一貫校化した現在も連綿と受け継がれており、同窓会にも伊藤長七の研究部会がある。
全国の公立中高一貫校の中でも最難関中学校に数えられる。東京都内では、都立武蔵、両国と共に都立中高一貫校の御三家の筆頭校に数えられる。
有名私立中学との併願者が非常に多く、主な私立併願校は渋谷教育学園渋谷、武蔵、城北、早稲田、開成、鴎友、豊島岡など。特に武蔵とは校風や教育理念が似ており併願も多い。
開成や櫻蔭の合格辞退組が初年度から多く小石川へ入学しているため、公立中高一貫校の筆頭校としてマスメディアや私学関係者からの注目も高い。