中央集権化を進めた尼子晴久。彼の改革はある程度は進んだのだが、戦国大名としての尼子家は、次の義久の代に一度滅んでしまうのだ。尼子家が滅んだ原因はどこにあったのだろうか? まず晴久がそこまで長生きできなかったのが、大きかった。晴久は1561年12月、47歳の時に急死してしまうのだ。次の当主・義久は祖父や父に比べると――いや比べなくても、遥かに凡庸な男であった。そして前記事の最後に示唆したように、隣には飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利元就がいたのだ。代替わりの際の隙に乗じ、元就がすかさず動く。 元就は以前より、石見銀山を喉から手が出るほど欲していたのだが、晴久在命時には何度攻勢をかけても、これを奪うことは…