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山崎の戦い

(社会)
やまさきのたたかい

天正10年(1582)6月13日、羽柴秀吉と明智光秀が摂津・山城国境付近の山崎で激突した合戦。

戦いまでの経緯

6月2日、京都の本能寺にて織田信長が、家臣の明智光秀に急襲されて自害した(本能寺の変)。
その2日後、毛利輝元の家臣・清水宗治が籠城する備中高松城を攻城していた羽柴秀吉は、この報せを聞くと、城将の命と宗治の切腹とを引き換えに毛利氏と和睦、6日に備前沼(岡山県岡山市)、7日に播磨姫路城(兵庫県姫路市)、11日に摂津大物(兵庫県尼崎市)、12日には摂津富田(大阪府高槻市)に達した(中国大返し)。途中、摂津衆の池田恒興・中川清秀・高山右近が、それに四国攻めの準備の為、堺(大阪府堺市)にいた神戸信孝・丹羽長秀が秀吉に味方し、4万の軍勢に膨れ上がった*1
一方の、明智光秀は秀吉を迎撃する準備が整っていなかった。また、頼りにしていた細川幽斎・忠興親子や筒井順慶が味方せず、秀吉方とは対照的に1万6千の軍勢しか集まらなかった。10日になって、勝龍寺城と淀城を急いで修築したが、迎撃準備を充分に整える事はできなかった。

戦いの経過と光秀の死

12日深夜から、羽柴軍と明智軍は円明寺川を挟んで対峙した。羽柴軍は12日中に摂津衆に命じて山崎宿を占拠させ、池田恒興らは右翼に、黒田如水・羽柴秀長らは西国街道沿いに布陣。秀吉の本陣は天王山山腹の宝寺に置かれた。これに明智軍は、御坊塚の光秀本陣の前面に、斉藤利三・溝尾茂朝・阿閉貞征・丹波衆・河内衆・旧幕府衆らが布陣した。
13日午後4時、明智方の伊勢貞興隊が羽柴方の中川清秀隊に攻撃したのを引き金に、明智方の斉藤利三隊が羽柴方の高山右近隊に攻撃し、山崎の戦いの火蓋は切って落とされた。
中川・高山隊は窮地に陥り後退するが、ここで『名人久太郎』の異名をもつ堀秀政が、中川・高山隊の援軍に駆けつけ、伊勢・斉藤隊を押し返した。
午後6時頃、右翼に陣取っていた池田恒興・加藤光泰・中村一氏らが淀川沿いに進軍。円明寺川を渡り、手薄となっていた左翼*2津田信春隊へ奇襲攻撃。このうち、加藤隊は光秀本陣に迫る勢いを見せた。この奇襲で、中川・高山・堀隊を抑えていた斉藤隊が崩れて後退。羽柴軍は、後詰の神戸信孝・丹羽長秀・蜂屋頼隆が右翼に突入。羽柴秀長・黒田如水・神子田正治らが中堅から進撃。明智軍は総崩れとなり、兵数は700余名にまで減少。光秀は本陣後方の勝龍寺城へ退却した。
深夜になって、光秀は勝龍寺城を僅かな家臣とともに脱出、近江坂本城(滋賀県大津市)へ落ち延びる途中、小栗栖(京都市伏見区付近)で農民に竹槍で刺されて落命した。享年55*3

戦後

翌日、秀吉は堀秀政を近江へ派遣。打出(滋賀県大津市)で明智軍後詰の明智秀満を撃破。秀満は坂本城に敗走したのち、光秀妻子を刺し殺したのち、一族共々自害した。16日、羽柴軍は近江を制圧。17日には、堅田(滋賀県大津市)で潜伏していた斉藤利三を逮捕し、六条河原で斬首、晒し首にされ、屍は粟田口(京都市東山区)に磔にされた。
この戦いで勝利した秀吉は、「逆賊光秀を討った」という大義名分のもと、清洲会議を有利に進め、天下人の地位を固めていく事になる。

*1:2万という説も。

*2:光秀は、天王山が主戦場となると考えており、右翼の兵力を厚くしていた為に、左翼の備えが手薄となっていた。

*3:異説あり。

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