南北朝の争いは引き続き混沌とした状況に。貞和3年・正平2年(1347年)の吉野陥落をもって北朝方が圧倒するかと思いきや、幕府では足利尊氏(あしかがたかうじ)と足利直義(ただよし)の兄弟喧嘩(観応の擾乱)が勃発。幕府が分裂し、直義が南朝にくだったり、尊氏が南朝にくだったり。南北朝合一が成ったり、北朝が復活したり。 足利兄弟の南朝への帰順は、あくまでも抗争収拾のために利用したにすぎなかった。この頃から、戦っている者の意識は南朝とか北朝とかどうでもよくなっているかのような印象がある。北朝につくも南朝につくも、あくまでも利害による。「どっちが得か?」という思考をもとに、コロコロと立場を変えるのである。…