1535年〜1619年 戦国武将。戦国後期最強の一角。通称「鬼島津」 島津四兄弟の次男。島津の九州征服で大活躍。慶長の役では「鬼石曼子」と恐れられる。
関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、紆余曲折があったのであまり積極的に行動せずに合戦当日に至る。 大勢が決した後、「島津の退き口」と称されることになる「前方への退却」を行い、井伊直政を負傷させたり島津製作所のご先祖様に助けられたりしつつ国元に帰還する。その後、隠居して維新と号した。
これ、素晴らしい一冊だ! 帯には「戦後初の中世島津氏本格的通史!」の文字。そのとおりの内容となっている。「ずっとこんな本が欲しかった」と、個人的に思っていた。 『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年10月発売 (C)EBISUKOSYO PUBLICATION CO.,LTD. 2023 図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル 戎光祥出版 Amazon 戎光祥出版のホームページはこちら www.ebisukosyo.co.jp 島津氏の歴史は長い。12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得たことに始まる。島津…
勝栗神社(かちぐりじんじゃ)へお詣りに。 鎮座地は鹿児島県姶良郡湧水町米永。古くは正若宮八幡社(しょうわかみやはちまんしゃ)と称し、明治3年(1870年)に「勝栗神社」に改称している。 島津義弘(しまづよしひろ)とも縁のある場所だ。このあたりはかつての大隅国栗野(くりの)のうち。天正18年(1590年)から文禄4年(1595年)にかけて、島津義弘は栗野の松尾城(まつおじょう)を居城としていた。そして、正若宮八幡社(勝栗神社)では朝鮮出陣の儀式も行っている。 正若宮八幡社の由緒 高い木々が境内を覆う 島津義弘の出陣式 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []…
島津家の「小返しの五本鑓」について、紹介してみる。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。徳川家康が率いる東軍が、反徳川方の西軍を破る。 島津義弘(しまづよしひろ)は西軍に参加し、敗軍の将となる。戦況が決したとき、島津義弘の部隊は戦場の真っただ中にあった。島津隊は前方に向かって退却を敢行。徳川家康本陣の前をかすめ、激しい追撃を振り切り、戦場を離脱した。「島津の退き口」である。 徳川方の猛追を撃退した5人の将があった。撤退戦(島津の退き口)の殊勲者として「小返しの五本鑓」と讃えられる。 その顔ぶれはつぎのとおり。 川上忠兄(かわかみだだえ)・川上久…
大隅国加治木(かじき)に松齢山長年寺(しょうれいざんちょうねんじ)という寺院があった。現在の鹿児島県姶良市加治木町木田のあたりだ。ここは加治木島津家の菩提寺。寺院跡には墓所が残っている。国史跡にも指定されている。 ちなみに山号の「松齢山」は、島津義弘(しまづよしひろ)の法名「松齢自貞庵主」から。 島津義弘の位牌を置く 加治木島津家の菩提寺 長年寺の墓地へ 島津都美の墓と亀趺碑 椿窓院殿供養塔 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 島津義弘の位牌を置く もともとは「鳳凰山大樹寺」(「大寿寺」とも)と号し、加治木城(かじきじょう、姶良…
今度至于片浦*1黒船*2着岸之由言上候、然者糸*3之儀商売仕度旨申之由候条、先銀子弐万枚、御奉行*4差添被遣候、有様ニ相場を相立可売上候、若糸余候ハヽ諸商人かハせ*5可申候、買手無之ニ付ては、有次第可被為召上候、此以後年中ニ五度十度相渡候共、悉可被為召上候間、毎年令渡海何之浦〻にても、付よき所*6へ可相着候由、可被申聞候、縦雖為寄船*7、於日本之地者、聊其妨*8不可有之候、糸之儀被召上儀者、更〻非商売之事候、和朝*9へ船為可被作着、如此之趣慥可申聞候、此方より御奉行被差下候まてハ、先糸之売買可相待候、猶石田治部少輔*10可申候也、 八月廿七日*11 (朱印) 羽柴薩摩侍従とのへ*12 (四、2…
こんにちは、rekikakkunです。 今回は島津の退き口も3回目、 ラストとなります。 前回の島津退き口は、島津豊久公の 足跡を巡りました。 今回は、主将島津義弘本隊の足跡を、 桐野作人さんの著書をベースに、 確認していきたいと思います。 (ほぼ行ってないので写真2枚だけですm(__)m) 義弘の退却ルートはざっくり下図になろうかと思います。 各ポイントの場所に番号を振ってお話していきます。 ~①関ケ原島津陣跡~ 島津軍、関ケ原を正面突破、退き口開始。 関ケ原 島津軍の突破開始(赤矢印が島津隊) ~②伊勢街道、牧田~ 関ケ原を突破し伊勢街道に入った島津義弘本隊は、 養老山系と南宮山の間、伊勢…
こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ、島津の退き口の2回目です。 前回は関ヶ原を突破し、伊勢街道を南下、 鳥頭坂の史跡を越え、長寿院盛淳の戦死場所、 上石津町牧田の地まで追跡しました。 長寿院盛淳の碑(上石津町牧田) 牧田の地は関ケ原盆地から おおよそ4km程伊勢街道を南下した場所で、 養老山系北端の小さな平野です。 そしてここは南下の際に、養老山系の東側を通る道と、 西側を通る道の分岐点になります。 伊勢東街道、伊勢西街道とも言われたそうです。 マップに追記してみますと、下図の感じです。 関ケ原盆地から、伊勢東街道(赤線)と伊勢西街道(黄線)を見る 牧田の分岐点辺りで撮影し…
こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ最後を飾るのは、 やはり、島津の退き口ですよね~。 いつか探訪したいと思っていたところ、 このはてなブログで、私が読者として登録 させていただいてる記事に、 桐野作人さん著の「関ケ原島津退き口」 の著書がご紹介されておりました。 (加筆版ですが、2022年10月の初版です) 早速購入して読んでみたところ、読み応え充分。😊 多くの興味深い情報を得ることが出来、 かつとても面白かったです。 ご紹介ありがとうございました。m(__)m 今回、この本を参考にしながら行ける所まで、 島津軍退き口の史跡をおおよその時系列で 追ってみたいと思います。 今…
こんにちは~、rekikakkunです。 関ヶ原シリーズ第4回目となりました。 いよいよ、関ケ原へと向かいます。 合戦前日1600年9月14日の情勢を 簡単に下の地図で表してみます。 (③と④の城はほぼ残ってないので近くのもので代用) ①大垣城(西軍) ②岐阜城(落城し東軍) ③竹ヶ鼻城(落城し東軍) ④福束城、及び周辺の駒野城等(落城し東軍) ⑤徳川家康本軍の美濃赤坂着陣 ⑥菩提山城(東軍に寝返り) ⑦松尾山城(小早川秀秋軍が、 西軍守備隊を追い出して占拠) ⑧佐和山城(西軍三成本拠) 濃尾平野の大半を東軍に落とされ、 9月14日、⑤に家康本軍、 ⑦に小早川秀秋の大軍勢が着陣した事により、 …
鹿児島県姶良市に蒲生(かもう)というところがある。この地に鎮座する蒲生八幡神社(かもうはちまんじんじゃ)は素敵な場所だ。 主祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。ほかに摂社・末社も境内には祀られている。 そして、境内には「蒲生の大楠」と呼ばれる巨樹がある。この御神木もすごい存在感なのだ。 蒲生氏が創建 島津義弘が再興 木々の生命力を感じる (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 蒲生氏が創建 保安4年(1123年)に蒲生舜清(かもうちかきよ、藤原舜清)が創建した、と伝わる。もともとは「正八幡若宮」と呼ばれていた。 蒲生氏は関白の藤原教…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 信濃・上田における真田昌幸と徳川秀忠の戦いは、美濃・関ヶ原の戦いの一局面であった。 ・ ・ ・ [歴史探偵] 幻の江戸攻撃作戦 直江兼続 伊達政宗 連合す!| NHK 2023/01/18 「歴史探偵」今夜も歴史の謎が解き明かされる http://nhk.jp/rekishi-tantei?cid=dchk... この作戦が実現していたら関ケ原の戦いは無かった――。西軍・石田三成の対家康決戦構想には、上杉家・直江兼続による、上杉はじめ東北諸将の連合軍を形成し、徳川家康の本拠地、江戸…
11月12日放送予定の「どうする家康」第43話「関ヶ原の戦い」です。徳川家康と石田三成・・ついに決戦のときを迎えます。では、あらすじを見て行きましょう。(腹の探り合い)家康は、挙兵した石田三成と戦うことになりました。その三成は、大垣城で、総大将となる毛利輝元や、秀吉の遺児・豊臣秀頼を待ちながら籠城していました。一方、家康軍では、福島正則が、すぐにでも大垣城を攻めるべきだと意気込みます。しかし秀忠軍がまだ到着していません。秀忠は今回が初陣で徳川本軍3万の兵を預かりましたが、真田の作戦に見事にはまり、到着が大幅に遅れていました。このままでは、家康軍が数の上では圧倒的に不利です。そこで家康は、各大名…
どうでも良いや家康 実際には石田三成の方が「戦の無い世の中」を考えていた様に思います。 どうする家康 しつこいようですが「もう良いや」という感じなんですけど、受信料取・ら・れ・て・いるので、意地で観ています。 どうした関ヶ原 大津城 関ヶ原の戦後、徳川家康は捕縛された石田三成と大津城で面会しますが、互いに随分な長舌でしたね。 「何故、このような戦を起こした」 家康は三成を責めましたが、記録を観る限り「仕掛けたのは、むしろ家康アンタの方だろ」と言いたくなります。 三成一人に責任を押し付けるなんて…まあ、「戦争は全て敗者の側に責任がある」というやつですね。 俳優さんもあんな白々しいセリフを言わされ…
「豊臣秀長」という名前を耳にすることは少ないかもしれませんが、この人物は実は日本歴史の中で大変重要な役割を果たしていたんです。私たちがよく知る天下人、豊臣秀吉は、百姓の出身から天下を取った英雄として有名ですよね。しかし、秀吉の華々しいサクセスストーリーの影で、彼の背後には秀吉の弟である豊臣秀長がいたんです。秀長は、初期豊臣家の経営を実質的に支える重要な役割を担っていました。大河ドラマにも登場することはあるものの、彼のキャラクターは特別強烈なものではないため、多くの人にはあまり知られていないのが実情です。今回の動画では、そんな地味ながらも非常に才能に溢れ、多くの障害にも立ち向かった豊臣秀長の魅力…
引用:https://www.nhk.or.jp/ieyasu/ 大河ドラマ『どうする家康 第43話』では、毛利輝元が関ヶ原へ参陣せず、東軍率いる徳川家康の勝利に終わってしまいました。 なぜ、毛利輝元は大阪城を出て、関ヶ原へ参陣しなかったのか?その理由について詳しく紹介しましょう。
〔行程〕岐阜県関ケ原町→岐阜県大垣市 歴史探訪 今回は秋晴れの中、県外活動で関ヶ原の戦いでの各スポットに訪れに行きました。 道中いなべ市にて、朝ご飯(早目のお昼ご飯)としてラーメン屋で腹ごしらえ。 現地に着いてからは西軍の名所から訪れに行きました。 【宇喜多秀家陣跡】 開戦の地を経て【小西行長陣跡】 【島津義弘陣跡】 【大谷吉継墓】【大谷吉継陣跡】 大谷吉継墓の近くにあった立て看板。今年はクマ被害が多いので本当に怖いです。 位置的に近くだったので東軍の福島正則の地へ立ち寄りました。 【福島正則陣跡】 関ケ原で一番有名なスポット(?) 【石田三成陣跡】 【島左近陣地】 島津隊と同じく我々も伊勢街…
宇土市で行われた、小西行長を見直すシンポジウムの書籍化。小西行長は秀吉没後に徳川家康が主導権を握った時、当初は従っていたらしい。文禄・慶長の役で、朝鮮・明が恐れていたのは、小西行長、加藤清正、島津義弘だったらしい。この3人は、朝鮮住民の環住にも成功していたらしい。
日向国の都城盆地の一帯は昔から「庄内(しょうない)」「荘内」と呼ばれている。これは「島津荘(しまづのしょう)のうち」を意味する。そして、宮崎県都城市に「庄内町」というところがある。 この庄内町に山城跡がある。安永城(やすながじょう)という。別名に鶴翼城とも。 都城盆地は14世紀から島津一族の北郷(ほんごう)氏が長きにわたって治めた。北郷氏は17世紀に名乗りを「島津」に復し、「都城島津氏」「都城島津氏」とも呼ばれている。 安永城は、北郷氏が拠点とした城でもある。 北郷氏と安永城 気軽に山城の雰囲気を感じられる 北郷忠相が巻き返す 北郷相久の自害 庄内の乱 (adsbygoogle = windo…
関ヶ原の戦いの相関図を作成しました。 関ヶ原の戦いは豊臣VS徳川のイメージですが、実際は豊臣秀頼の下での家臣の争いでした。 ■目次 ■人物紹介豊臣秀頼淀殿 <東軍> 徳川家康本多忠勝井伊直政黒田長政細川忠興寺沢広高福島正則藤堂高虎 真田信之 <西軍> 石田三成島津義弘島左近小西行長 宇喜多秀家大谷吉継真田幸村 小早川秀秋毛利元就吉川弘家 ■年表■参考資料(ドラマ) ■使用素材について ■人物紹介 豊臣秀頼 父・豊臣秀吉死後に若くして後を継ぐが、若すぎたために力不足で、この後の大阪の陣で家康に滅ぼされる。無能な若君として描かれてきたが、傀儡にするのは難しいので滅ぼされたとの有能説もある。関ヶ原の…
日本の歴史の中で、明らかに異なる様相を見せた戦国時代。家格や世襲など「分限」を重んじる時代から、下剋上による能力主義の時代に移り、個人が際立つ活躍を見せます。そんな時代を映す歴史小説は近年かなり増加し、そして同じ人物でも様々な光の当て方によって違う人物像を造形しています。 今回取り上げた作品の中で特に感銘を受けたのは、「叛鬼」と「覇道の槍」。関東と京洛で、応仁の乱以降「私のアタマ」で空白だった時代を埋めてくれました。 nmukkun.hatenablog.com nmukkun.hatenablog.com 今回も私の「嗜好」から選びましたが、同じ武将でも違う作品も多くあり、また間に合わなかっ…
2021年3月10日初版 2021年5月20日3刷 裏表紙裏「あの東京大学史料編纂所・本郷和人先生が、歴史を変えた「失敗」をピックアップ! 元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if”を展開。失敗の中にこそ、豊かな”学び”はある!」 目次 第1章 鎌倉時代の失敗 第2章 南北朝時代の失敗 第3章 室町時代の失敗 第4章 戦国時代の失敗 第5章 安土桃山時代の失敗 第6章 関ヶ原の失敗 ・平清盛の失…
思ってもみなかったのである。まさか、川路利良(かわじとしよし)を主役にした漫画が出てくるなんて! 連載が始まったとき、驚いた。 そして、これが面白いのである! その作品は『だんドーン』という。作者は泰三子(やすみこ)氏。2023年6月に『週刊モーニング』(講談社)で連載開始。2023年10月に単行本の第1巻が発売された。 『だんドーン』第1巻、川路利良誕生地にて だんドーン(1) (モーニングコミックス) 作者:泰三子 講談社 Amazon 川路利良は日本の警察制度をつくり、初代の大警視(現在の警視総監にあたる)を務めた人物。漫画の主役とするには、なかなかにマニアックな人選である。 泰三子氏の…
◯家康に学ぶ 「どうする家康」では、天下分け目の関ヶ原に、まっしぐらですね。 徳川家康が愛読し部下にも勧めたのは、「孟子」です。これは、民を貴しとなし、その民を愛し慈しむことができなければ、為政者を殺してもよいという思想の書です。 それを配布するとは、器が違いますね。 だからこそ、自らも引き締め、江戸幕府の続く元となったのでしょう。 所詮、政権は天からの預かり物なのです。 もし信長や秀吉が、家康と同じ年齢まで生きていたら、 歴史は、日本は、どうなっていたでしょうね。 年齢に、昔とは、違う意味でこだわるようになりました。 天下に出たのがいつ、でなく、いつ亡くなったのか、です。 信長ー秀吉ー家康の…
天命~毛利元就武略十番勝負~【電子書籍】[ 岩井三四二 ]価格: 990 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 中国地方の小豪族の次男として生まれた毛利元就。寺の修行中に兄が急死しその子はまだ幼いため、突如大将を任されて、3倍の武田元繁を相手にしなければならなくなる。実戦経験のない元就は、家臣の統率もできず戦の決め手もなく青い顔をしていると、養母のお方様が「父も戦の前は心配で雪隠(トイレ)に籠って、自分に言い聞かせてから戦いに出向いたもの」と言われ、気持ちを取り戻して戦に向かうと、突進する元繁を討ちとり、初戦を勝利で飾ることができた。 名門の強大国大内家と新興の尼子家に挟まれた小豪族の毛利家。兄の…