1535年〜1619年 戦国武将。戦国後期最強の一角。通称「鬼島津」 島津四兄弟の次男。島津の九州征服で大活躍。慶長の役では「鬼石曼子」と恐れられる。
関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、紆余曲折があったのであまり積極的に行動せずに合戦当日に至る。 大勢が決した後、「島津の退き口」と称されることになる「前方への退却」を行い、井伊直政を負傷させたり島津製作所のご先祖様に助けられたりしつつ国元に帰還する。その後、隠居して維新と号した。
島津氏は、元亀2年(1571年)に島津貴久(しまづたかひさ)が没して代替わりをする。跡を継いだのは長男の島津義久(よしひさ)。そして、次男の島津忠平(ただひら、島津義弘、よしひろ)、三男の島津歳久(としひさ)、四男の島津家久(いえひさ)らが兄を支える。 この四兄弟の時代になって、島津氏はものすごい勢いで支配領域を広げる。短期間のうちに九州のほとんどを制圧し、そして天下人となった豊臣秀吉と対峙することに。……その過程をたどってみる。 島津の四兄弟 島津義久 島津忠平(島津義弘) 島津歳久 島津家久 島津包囲網 肝付が動く、鹿児島湾岸の戦い 伊東も動く 加久藤城の戦い 木崎原の戦い 大隅の制圧 小…
鹿児島県姶良市鍋倉は、かつての大隅国始羅郡(しらのこおり)の帖佐(ちょうさ)のうち。この地には平山城(ひらやまじょう)という山城があった。別名に帖佐本城(ちょうさほんじょう)ともいう。 この平山城跡に向かう山道の途中に、高尾城(たかおじょう)跡を示す白い標柱がある。 「高尾城跡」 高尾城は平山城(帖佐本城)の支城である。位置関係から想像すると、平山城(帖佐本城)へ侵入してきた敵を、道の途中で叩く防衛拠点のような感じだろうか。 また、高尾城跡にはかつて稲荷神社が鎮座していた。「元稲荷」とも呼ばれている。 ちょっと登ってみた。 平山城について 高尾城での戦い 高尾城跡へ 曲輪跡に元稲荷 日付につい…
これ、素晴らしい一冊だ! 帯には「戦後初の中世島津氏本格的通史!」の文字。そのとおりの内容となっている。「ずっとこんな本が欲しかった」と、個人的に思っていた。 『図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル』編著/新名一仁 発行/戎光祥出版 2023年10月発売 (C)EBISUKOSYO PUBLICATION CO.,LTD. 2023 図説 中世島津氏 九州を席捲した名族のクロニクル 戎光祥出版 Amazon 戎光祥出版のホームページはこちら www.ebisukosyo.co.jp 島津氏の歴史は長い。12世紀末に惟宗忠久(これむねのただひさ)が南九州に所領を得たことに始まる。島津…
勝栗神社(かちぐりじんじゃ)へお詣りに。 鎮座地は鹿児島県姶良郡湧水町米永。古くは正若宮八幡社(しょうわかみやはちまんしゃ)と称し、明治3年(1870年)に「勝栗神社」に改称している。 島津義弘(しまづよしひろ)とも縁のある場所だ。このあたりはかつての大隅国栗野(くりの)のうち。天正18年(1590年)から文禄4年(1595年)にかけて、島津義弘は栗野の松尾城(まつおじょう)を居城としていた。そして、正若宮八幡社(勝栗神社)では朝鮮出陣の儀式も行っている。 正若宮八幡社の由緒 高い木々が境内を覆う 島津義弘の出陣式 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []…
島津家の「小返しの五本鑓」について、紹介してみる。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で合戦があった。徳川家康が率いる東軍が、反徳川方の西軍を破る。 島津義弘(しまづよしひろ)は西軍に参加し、敗軍の将となる。戦況が決したとき、島津義弘の部隊は戦場の真っただ中にあった。島津隊は前方に向かって退却を敢行。徳川家康本陣の前をかすめ、激しい追撃を振り切り、戦場を離脱した。「島津の退き口」である。 徳川方の猛追を撃退した5人の将があった。撤退戦(島津の退き口)の殊勲者として「小返しの五本鑓」と讃えられる。 その顔ぶれはつぎのとおり。 川上忠兄(かわかみだだえ)・川上久…
大隅国加治木(かじき)に松齢山長年寺(しょうれいざんちょうねんじ)という寺院があった。現在の鹿児島県姶良市加治木町木田のあたりだ。ここは加治木島津家の菩提寺。寺院跡には墓所が残っている。国史跡にも指定されている。 ちなみに山号の「松齢山」は、島津義弘(しまづよしひろ)の法名「松齢自貞庵主」から。 島津義弘の位牌を置く 加治木島津家の菩提寺 長年寺の墓地へ 島津都美の墓と亀趺碑 椿窓院殿供養塔 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 島津義弘の位牌を置く もともとは「鳳凰山大樹寺」(「大寿寺」とも)と号し、加治木城(かじきじょう、姶良…
今度至于片浦*1黒船*2着岸之由言上候、然者糸*3之儀商売仕度旨申之由候条、先銀子弐万枚、御奉行*4差添被遣候、有様ニ相場を相立可売上候、若糸余候ハヽ諸商人かハせ*5可申候、買手無之ニ付ては、有次第可被為召上候、此以後年中ニ五度十度相渡候共、悉可被為召上候間、毎年令渡海何之浦〻にても、付よき所*6へ可相着候由、可被申聞候、縦雖為寄船*7、於日本之地者、聊其妨*8不可有之候、糸之儀被召上儀者、更〻非商売之事候、和朝*9へ船為可被作着、如此之趣慥可申聞候、此方より御奉行被差下候まてハ、先糸之売買可相待候、猶石田治部少輔*10可申候也、 八月廿七日*11 (朱印) 羽柴薩摩侍従とのへ*12 (四、2…
こんにちは、rekikakkunです。 今回は島津の退き口も3回目、 ラストとなります。 前回の島津退き口は、島津豊久公の 足跡を巡りました。 今回は、主将島津義弘本隊の足跡を、 桐野作人さんの著書をベースに、 確認していきたいと思います。 (ほぼ行ってないので写真2枚だけですm(__)m) 義弘の退却ルートはざっくり下図になろうかと思います。 各ポイントの場所に番号を振ってお話していきます。 ~①関ケ原島津陣跡~ 島津軍、関ケ原を正面突破、退き口開始。 関ケ原 島津軍の突破開始(赤矢印が島津隊) ~②伊勢街道、牧田~ 関ケ原を突破し伊勢街道に入った島津義弘本隊は、 養老山系と南宮山の間、伊勢…
島津義弘 スキル「鬼石曼子」 発動すると、敵陣を突破して、敵の英雄1~2名(大将以外の英雄をランダム選択)に戦闘前損失を最大93%与えることができる。 戦闘前損失93%というのはかなりの大ダメージです。 しかしコストが6とやや重いので、似たような性能のヘルヴォールの方が使いやすいかもしれません。
こんにちは、rekikakkunです。 関ケ原シリーズ、島津の退き口の2回目です。 前回は関ヶ原を突破し、伊勢街道を南下、 鳥頭坂の史跡を越え、長寿院盛淳の戦死場所、 上石津町牧田の地まで追跡しました。 長寿院盛淳の碑(上石津町牧田) 牧田の地は関ケ原盆地から おおよそ4km程伊勢街道を南下した場所で、 養老山系北端の小さな平野です。 そしてここは南下の際に、養老山系の東側を通る道と、 西側を通る道の分岐点になります。 伊勢東街道、伊勢西街道とも言われたそうです。 マップに追記してみますと、下図の感じです。 関ケ原盆地から、伊勢東街道(赤線)と伊勢西街道(黄線)を見る 牧田の分岐点辺りで撮影し…
生きて候 上【電子書籍】[ 安部龍太郎 ]価格: 605 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 後に徳川家康の参謀として活躍する本多正信の次男として生まれた本多政重だが、生まれた頃父正信は、徳川家から出奔して加賀一向一揆衆に紛れ込んでいた。信長の一向衆への攻撃が迫り、母は門徒として殉死するが、正信は母の願いで子の政重を連れて逃げ、徳川家中で武勇を誇る倉橋長右衛門の養子となった。義父の影響で政重は83㎝もある大身槍を使う武勇の士に育ち、本多正信を愚弄する武闘派の本多忠勝や榊原康政からも、一目置かれる存在になった。 ある日親友が徳川秀忠の寵臣と争い、喧嘩両成敗の所を兄の本多正純が不公平な扱いをしたこと…
治承元年五月五日、叡山の座主〈ざす〉、明雲《めいうん》大僧正は、 宮中の出入りを差しとめられた。 同時に、天皇平安の祈りを捧げるために預っていた、 如意輪観音《にょいりんかんのん》の本尊も取上げられた。 更に検非違使庁《けびいしのちょう》を通じて、 神輿を振り上げて、 都へ押し寄せた張本人を摘発せよという命令もきていた。 こうした、矢次ぎ早の朝廷の強硬策は、 先の京の大火事に原因と理由があったろうが、 もう一つには、とかく、法皇の信任厚い西光《さいこう》法師が、 あることないこと、山門の不利になることばかりを、 後白河法皇に告げ口したためであった。 そのため、法皇は、ひどく山門に対する心証を害…
加賀守師高、目代師経の断罪を度々叫び続けていたのにも拘らず、 一向に沙汰のないのにしびれを切らした山門の僧兵達は、 再び実力で、事を処理する決心を固めた。 折柄行われる予定の日吉《ひえ》の祭礼をとりやめると、 安元《あんげん》三年四月、御輿を陣頭に京へくり出して来た。 賀茂の河原から、法成寺《ほうじょうじ》の一角に兵をくり出し、 御所を東北から囲む体形で迫ってきた。 京の街々辻々には、 坊主、神官、その他、各寺、神社に仕える者達がはしくれに至るまで、 都大路をぎっしり埋めていた。 神輿は、折柄の朝日を受けて、輝くばかりのきらびやかさで、 人目をうばうばかりである。 事に驚いた朝廷側からは、 早…
【中古】島津奔る 上巻/ 池宮彰一郎価格: 460 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 豊臣秀吉の島津征伐後に家督を兄義久(龍伯)から譲られた島津義弘。秀吉の命により朝鮮に出兵したが、敗勢の中秀吉が薨去して帰国命令が出る。明・朝鮮連合軍は20万、対して島津軍は6千余り。しかも日本軍は皆退却の中にいて、援軍は期待できない。殿(しんがり)となった島津義弘は、「釣り野伏せ」の陣を引き、20万の連合軍を完膚なきまでに打ち破ると、続けて朝鮮水軍の英雄李舜臣をも撃破し、義弘は敵から「石曼子(シーマンズ)」と恐れられる。 しかし領国は、長年の戦闘続きで疲弊しきっていた。しかも軍事を担当する義弘に対して、内政を…
石田三成いうたら、岡田准一が演じたが、死ぬ前に「これぞわが人生」いうて処刑されたが。 ダメでの。 関ケ原いうたらの、家康がはなから小早川金吾秀秋に裏切らせるつもりだったんやけど、要は「パルプフィクション」の賭けボクシングと同じで、「5ラウンドで倒れ」よ。 要はの時間を引き付けて、石田組を全部おびき寄せるんよ。 なんでかいうたら、石田組はの秀吉の手下やろ。秀吉いうたらちょっと口八丁であかんのや。 せやからちょうど前田利家が榊に使っとるけえ、その秀吉の手下の石田組はとにかく拙いんや。 せやから時間をかけてあぶだしをして、せん滅したのが関ケ原で。 退き島左近の島左近や。スロヴィキンのヘルソンからの撤…
ところで、成親と、動機こそ違え、志を同じくする者は、 まだ幾人かあった。 彼らがいつも好んで寄り集りの場所にしたのは、鹿ヶ谷にある、 これも同志の一人 俊寛《しゅんかん》の山荘である。 ここは、東山のふもとにあり、 後は三井寺に続いた、要害堅固なところで、 こういった陰謀を企むには、まさにもってこいの場所だったのである。 ある晩、後白河院が、お忍びでここにお出でになり、 話がいつか、平家に対する不満から次第に、 平家を葬る具体的な話になりそうになってきた。 後白河院のお供で席に連っていた浄憲法印《じょうけんほういん》は 思慮深い男であったから、 「まだこの種の話し合いはすべきではない。 それに…
旅でも食でも映画・ドラマでも何でも、予想以上に良いとお得な気分になります。 予想以上に良かった、岐阜関ヶ原古戦場記念館 ガイドツアーでたっぷりと歴史散策 春満喫のランチに舌鼓♪ 予想以上に良かった、岐阜関ヶ原古戦場記念館 『どうする家康』も終わって久しいし www.chotto-siesta.com 「関ヶ原なんてマニアな歴史好きが行くくらい?」そう思ってたら 開館直前の入場券券売機に列ができてて・・・ え?予想外なんですが(@_@) でも並んでみると、理由が判明 2台しかない券売機に係員さんがついて シアターの予約の有無を確認しているためでした。 関ヶ原古戦場記念館のシアターはネットであらか…
真田太平記(七)関ヶ原(新潮文庫) 作者:池波正太郎 新潮社 Amazon せっかくながら、柿は食えぬ。腹を病んでいるゆえ。 勇将島津義弘(66)を怒らせ、頼もしい宇喜田秀家に愛想をつかされた石田三成。なので毛利輝元に総大将をお願い。 あー、気になりすぎて本陣離れちゃったのね。 忍びの者が息を休めるときはこの世との別れのとき。 本多忠正、忠勝の長男。 上田城渡す渡さないの真田昌幸。結局渡すことにするけど、これも徳川秀忠軍を引き留める時間稼ぎ。 「角兵衛は昔から狂ってますよ。」ですね。 滝川三九郎、一益の孫。 鈴木右近、囲碁と昼寝の毎日。 小早川秀秋(19)、大谷吉継の病状が思ったよりひどくて西…
徳川四天王(上)【電子書籍】[ 南原 幹雄 ]価格: 924 円楽天で詳細を見る 【あらすじ】 お大の方は、子を産むときに夢を見た。仏法の中心の呼ばれる須弥山の頂上に対座する帝釈天。そしてその四方には、東面に持国天、南面に増長天、西方には広目天、そして北方には多聞天が憤怒の宗を現わし、邪鬼を踏みつけて、帝釈天を守ろうとしていた。こうして産まれた徳川家康に苦難が待ち受けると、大の方の夢に現われ、帝釈天たる家康を守り抜くと告げる。 家康の叔父にあたる酒井忠次は家康よりも20歳年上だが、人質時代から家康に付き従うと共に、武将として戦場で活躍し、宿老としても小豪族時代の松平家から家を支え、家臣の教育に…
今朝は綺麗なホーホケキョで目が覚めました! 石楠花ガールズの例会で天下分け目の関ヶ原ハイキングの日でした。昨日のお茶会&和太鼓総会でへとへとになり5時半に起きられず慌てました(^_^*) 奈良線何とか間に合い琵琶湖線の新快速に乗って米原へ!新快速の先頭の窓にはたくさんの乗り鉄がへばりついていて、待ちに待った春休みの鉄道旅行を楽しんでいるようでした。 米原駅から東海道線の大垣行きに乗り換え。滋賀を越えて岐阜に向かっているんだと実感(^.^) 関ヶ原駅に着く前に車内トラブル。小学生の子どもの鞄が体に当たったと車椅子のおじさんが怒鳴り子どもの腕を掴んだり押したりという暴力行為。子どもが『押さないでく…
こういった記事をしばしば見る。 toyokeizai.net たしかに秀吉は何度か人身売買を禁じる法令を発しているが、一方で唐入においては次のような指示を出してもいる。 態と申し入れ候、朝鮮人取り置かれ候うちに、縫官・手のきゝ候女、細工仕る者、進上あるべき旨御朱印なされ候、御家中をも御改め候てこれあらば、早〻御進上もっともに候、恐惶謹言、 長束大蔵大輔 十一月廿九日*1 正家(花押) 羽柴薩摩侍従殿*2 人〻御中 (島津家文書、1763号) この年は唐入が行われた前年の天正20年=文禄元年の翌年である。開戦1年後には捕虜のうち何かしら熟練した技を持つ者を秀吉に献上せよというのである。奴隷の原初…
霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は宮崎県小林市細野に鎮座する。ここは夷守神社(ひなもりじんじゃ)でもある。両社は合祀され、夷守神社の旧社地を鎮座地としている。 御祭神は瓊瓊杵命(ニニギノミコト)・木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)・彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)・豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)・鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)。日向三代(ひむかんさんだい)がそれぞれ夫婦で祭られている。夷守神社も御祭神は同じ。 明治時代に合祀される 霧島山中央六所権現(霧島岑神社) 雛守六所権現(夷守神社) 巨樹の並ぶ参道を奥へ 中央と、西と、東と …
最近金欠のsotaです。 どっかから金が沸いて出てきませんかね…出てきませんか、そうですか コツコツ地道に稼ぎます sota2003626.hatenablog.com 前回の記事にはこちらからどうぞ ということ熊本に帰る回ですね 今回は弟も熊本に遊びに行きたいということで一緒に行きます ーーーーー9:45ーーーーー 高校時代毎日使ってた駅 また帰ってくるからねー 島津義弘の銅像を眺めながら発車 ーーーーー10:30ーーーーー 川内駅到着 肥薩おれんじ鉄道に乗り換えます クロスシートですね 座り心地はまあまあ良さげ 海沿いを国道3号線と並走しながらのんびりと走ります Theローカル路線って感じ…
3月30日(土)、精矛神社において「第2回島津義弘公さくらまつり 扇和宴(せんわえん)」が開催されます。 日時:2024年3月30日(土)10:30〜15:00※雨天中止 場所:精矛神社 広場 collection.kojodan.jp 主催:島津義弘公ゆかりの地あいらPRプロジェクト実行委員会 協力:表千家 令和会、折田貴子、鹿児島県立加治木高等学校書道部、仙巌園、夢飛行プロジェクト、日置市、姶良市観光協会、姶良市歴史民俗資料館、しまづくめ 公式サイト:https://www.city.aira.lg.jp/shokan/sakuramaturi.html kojodan.jp
美味しい千枚漬が名物の村上重本店 2月の鹿児島旅行では「丸に十の字」の島津家の家紋をたくさん見た。京都でこの紋を使っているところが(知る限り)三つある。 一つ目は、ノーベル賞を出した島津製作所 二つ目は、京人形の島津 三つ目は、千枚漬の村上重 島津製作所のHPには次の記載がある。 "丸に十の字"の社章は、島津源蔵が、島津家の家紋を商標として定めたことに由来します。島津源蔵の祖先は井上惣兵衛尉茂一といい、1500年代後半に播州(兵庫県南西部)に住んでいました。薩摩の島津義弘公が、京都の伏見から帰国の途上に、豊臣秀吉公から新たに拝領した播州姫路の領地に立ち寄った際、 惣兵衛は領地の検分などに尽力し…