第10代の天皇。
御間城入彦五十瓊殖天皇、御真木入日子印恵命、美麻貴天皇、御肇國天皇とも。
稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二子。母は伊香色謎命、物部氏遠祖大綜麻杵の女である。 子女は、活目入彦五十狹茅天皇(垂仁天皇)、彦五十狹茅命、國方姫命、千千衝倭姫命、倭彦命、五十日鶴彦命、豐城入彦命、豐鍬入姫命、八坂入彦命、渟中城入姫命、十市瓊入姫命など。
超高齢化社会を迎えている日本でありますが、記紀によると天皇は100歳を越えた長寿さんばかりで超健康体国であった? 現代の医学の発達した世界でも100歳を超えるのは容易な事ではないですし、その時代に近い縄文人は30歳くらいと言われているのに、そんな訳ありませんよね。 あの織田信長が「人間五十年、下天の内をくらうれば、夢幻の如くなり」って、本当に舞ったのか分かりませんけど、きっと寿命ってそんなものだったと思いますよ。 何故、こんな話をするかと言うと、先の邪馬台国論争で一定率、時代背景が合わないと言われる方が居るのです。 wisteriaplus622.hatenablog.com ここで知ってほし…
任那(ミマナ)や第10代・崇神天皇を紹介し、日本書紀に秘められた謎を明らかにしていく。次の流れで紹介していく。 ・任那(ミマナ)・額角有人とツヌガアラシト・安羅(あら)・崇神天皇(すじんてんのう)・御間城尊の兄・彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)・御間城尊の妻と子供・即位10年9月・四道将軍・即位10年9月・御真木入日子はや・即位10年9月の倭迹迹日百襲姫命と大物主神・即位65年7月の蘇那曷叱知(そなかしち)の派遣 ■任那(ミマナ)不明~562年まで存在したとされる朝鮮半島における地名。広開土王碑、日本書紀に任那(ミマナ)に関する記述がみられ実在する。「伽耶」と同等、あるいは包含関係に…
邪馬台国の謎の女王「卑弥呼」 日本史の教科書に出てきますが、謎に包まれており、邪馬台国の場所さえも九州なのか、奈良なのか未だに論争が繰り広げられています。 そんな謎に包まれた人であるにも関わらず、日本人なら誰でも知っていると言っても過言ではない知名度を誇っているお方です。 今回はそんな卑弥呼の正体について考察していきます。
系図(世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱)から見えてくる世界。 今回は継体天皇から始まった6世紀の様子について。 502年(紀は506年)に豪族たちの総意で武烈天皇が排除され、503年(紀は507年)に継体天皇が擁立された。継体天皇と二人の皇子(後の安閑天皇と宣化天皇)が和珥系皇女に入婿する形で前世紀の血統の統一が目指された。結果はすぐに現れて継体3年(505年:紀は509年)に後の欽明天皇が生まれて、欽明天皇への皇統の継承が確定するかに見えた。 一方、国際情勢は苛烈化。任那の4県(512年)2郡(513年)を百済に割譲するなど、ジリ貧状態であった。北九州勢としては、せっかく仲哀…
四代懿徳五代孝昭間、六代孝安七代孝霊間、九代開化十代崇神間を切って世代を見直した『世代修正系図』から見えてくる世界。(参照:世代を修正した系図を作ってみる - 上古への情熱) 今回は西暦200年代の様子を紹介する。 第四代スキツミ(懿徳天皇)でホホデミ(神武天皇)から続く祭祀王家は途絶える。スキツミの親族、ワチツミは淡路に拠点を置き、吉備勢力と関係を深める。 世俗王第二代の倭足彦(記紀では第六代孝安天皇)の代替わりとして、ミマキ入彦が纏向を制圧し、世俗祭祀の統一王(記紀では第十代崇神天皇)となる。250年ごろのことである。※ミマキ入彦の出自であるが、皇后のミマキ入姫が、又の名をミマツ姫とも言わ…
昨日行った、うさぎ神社(正式名称ではありません(^_^;)=調神社(つきじんじゃ)の中の話です。。。 suoaei.hatenablog.com この神社、崇神天皇の勅命で創建されたということですが、すじんてんのう…?検索してみると、紀元前148年ー紀元前30年に存命されてた天皇…?らしく、え?そんな太古の昔?からあった神社???と驚きです。。。かなりかなり歴史の有り過ぎる神社でした。それも、神社というと鳥居があるのが普通ですが、鳥居がありません。鳥居の柱2本の間の上に縄が掛かっているだけです。 これは、調神社の『調』の意味である、昔歴史の授業で習いましたね…『租、庸、調』の調です。なんとなく…
昨年2020年秋の、奈良古代史巡りコンテンツです。「卑弥呼の里」ってのが、興奮ビンビンに高めてくれます!笑卑弥呼と言えば、例の「邪馬台国論争」。以前にも触れましたが、私は単純に「九州説派」なんですが、こうして現地を歩くと、いやいや・・、やっぱり近畿説か・・、という気分になってくるようで不思議なもの・・^^;、当然と言えば当然ですが、どうしても「地元説」に傾倒するのは無理もない、と思いますね・・^^;ちなみに、「卑弥呼」というのは固有名詞では無いんじゃないか・・?と私は感じておりまして、いわゆる一般名詞?つまりは、巫女さん、とか、神官とか、そういう意味で当時際立ったシャーマンだった女性を一般的に…
内藤湖南の『卑彌呼考』などでは、田道間守は難升米(ナシメ)に比定されることがある。タジマとナシメ の類似からだろう。 田道間守は、ヒナモリという魏志倭人伝の官職名を想いおこす。おそらく邪馬台国から任命された行政の副官なのだ。島守と書かれることもある。 田道間守は記紀によれば常世の国に派遣されたが、倭人伝のナシメだとすれば、中国の魏に派遣された使節団長とみなせるというのが、内藤説であります。 ところで、ヒナモリ=島守は外交の任務を兼ねていたと空想できるよう。なぜなら、島伝いに任命されているらしいから。 田道間守は新羅からの渡来人の孫であるという。つまり、半島の文化を知り、同時に半島とのコネクショ…
出雲の神宝と皇太子の選定 崇神紀略年表 出雲の神宝と皇太子の選定 『日本書紀』の崇神紀は、まず即位と后妃皇子女に始まり、次いで神々の祭祀、四道将軍と武埴安彦の謀叛、大物主神の妻問、御肇国天皇の称号、皇太子の選定、出雲の神宝と続き、造営した池を顕した後、任那が使者を遣わして朝貢してきた話を記して終る。一方の『古事記』は、まず即位と后妃皇子女、次いで神々の祭祀,三輪山の伝説、建波邇安王の反逆と続き、初國知しし天皇の称号と造営池を記して終る。文字数が多いのは記紀共に大物主神に関する話と武埴安彦の反乱の話で、この二件が崇神帝の治世で最も重要な出来事だったことが分かる。在位中に造営した池名を挙げるのは、…
四道将軍の派遣 諸将の人選 吉備津彦と吉備氏 大和朝廷の実像 武埴安彦の変 正妻に見る大和朝廷 四道将軍の派遣 一通り諸神の祭祀を終えた崇神帝は、周辺諸国の平定に着手する。即ち大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西海へ、丹波道主命を丹波へ遣わして、伏さぬ者は討てと命じた。所謂四道将軍である。これは現代で言うところの方面軍制度であり、日本史上で再びこれをやったのは織田信長一人しかいない。織田家の軍制下でも、柴田勝家を北陸へ、滝川一益を関東へ、羽柴秀吉を中国へ派遣し、明智光秀には丹波から山陰への国替えを命ずるなど、崇神帝とほぼ同じ将配置となっている。更に信長は丹羽長秀に四国征伐の準備をさせ…
出雲の国譲り神話か史実を元にしているとするならば、いつの時代の出来事だったのか?妄想してみました! 式内楯原神社に伝わる武甕槌の子孫の社伝 出雲の国譲りの時代はいつ? 出雲の国譲りと荒神谷遺跡 結論から申しますと、出雲の国譲りは3世紀中旬頃の出来事だったのではないかと考えています。 式内楯原神社に伝わる武甕槌の子孫の社伝 出雲の国譲りの時代を知りたくなったのは、大阪府大阪市平野区喜連(きれ)にある式内楯原神社(しきないたてはらじんじゃ)は武甕槌の子孫のゆかりの土地であると知ったためです。神話の中の神様というイメージから実在した人物なのではないかと考えました。 式内楯原神社(しきないたてはらじん…
佐紀高塚古墳 ヒシアゲ古墳から西へ向かう道は狭く、一度平城宮跡まで戻って、佐紀盾列古墳群の西群に向かう。佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、佐紀陵山古墳(日葉酢媛陵墓)、五社神古墳(神功皇后陵)と共に西群を構成し、その最も南に位置するのが佐紀高塚古墳(称徳天皇陵)である。墳丘長が127mの前方後円墳で、前方部を西方向に向け、南北を主軸とする西群の他古墳とは直交する。この写真では、正面に前方部、森の奥に後円部が位置する。 佐紀高塚古墳 佐紀高塚古墳の築造は古墳時代前期後半の4世紀代と推定されているが、被葬者は不明である。宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として称徳天皇陵に治定されている。『続日…
三種の神器... 昔はなにかに付けて言っていたような気がする。 なにかが何かは覚えていないけれど...w 例によって浅~く調べて都合のいいように想像しているので、間違っていることが多々あると思う。が、まぁそうであっても誰かの人生に影響するものでもないし、ましてや自分の人生にも影響はないので良しとする(大汗) 調べてみたらダラダラ長くなってしまった ( •᷄◡̑•᷅ )ヤレヤレ 「三種の神器」の読み方 「三種の神器」ってどの様に読むのか? 一般的には「さんしゅのじんぎ」らしい。 学生の頃は「じんぎ」じゃ「仁義」になっちゃうじゃん、なので「しんき」じゃないのか?、と思っていた。 だが、誰が三種の神…
日本で鬼退治伝説が残っている地域としては、丹後の大江山の他に吉備地方がある。 吉備にはかつて温羅(うら)という鬼がいて、人々を困らせていた。 温羅は、第10代崇神天皇の御代に、四道将軍の一人、大吉備津彦命に征服されたと伝承されている。 温羅の面 温羅は、当時の吉備に住んでいた、百済の王子に率いられた製鉄集団だったという説がある。 いずれにしろ、古代において、大和朝廷に服属しなかった集団を征服したことが、鬼退治伝説として伝わったのであろう。 大江山では、平安時代に源頼光が、大江山に棲む酒呑童子という鬼を退治したという話が伝わっている。 酒呑童子 茨木童子 源頼光は、渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、卜…
箸墓古墳(倭迹迹日百襲姫命墓)はしはかこふん(やまとととひももそひめのみことはか)🔳データベース【所在地】 :奈良県桜井市箸中【規模・形状】 :全長278m、後円部高さ30mの前方後円墳(全国第11位の規模)【埋葬施設】 :不明(陵墓の為、未発掘)【出土品】 :特殊器台埴輪等【築造時期】 :3世紀中頃~後半【駐車場有無】 :無し【備考】 :日本書紀によると倭迹迹日百襲姫命は崇神天皇の 祖父である孝元天皇の兄弟にあたる。さらに卑弥呼に当てる説もあり。 その意味で邪馬台国論争の鍵を握る墓とも考えられる。【おすすめ度】 :★★★★★(★1~★5で評価)【参考URL】 :https://ja.wiki…
<お詫び> 【新年の挨拶②】 ▼「蛇(巳)」(ブログの枕) 少し気は早いですが、正月は忙しいので12月に「新年の挨拶①」及び「新年の挨拶②」の二回に分けて新年の挨拶を投稿します。2025年の干支は「蛇(巳)」ですが、中国の歴史家・班固らが編纂した史書「漢書」の律暦志には十二支が自然界の輪廻転生を表したものであるという由緒が解説されており、そのうち「巳」は「草木の成長が極限に達して、次の生命が宿され始める時期」とされています。これが日本に伝来して庶民にも理解し易いように十二支に動物の名前を割り当てた作り話で物語風に仕立てたものに「巳」が転じて「蛇」が登場します。この点、蛇は、脱皮を繰り返して成長…
どうも、ひのきですm(*_ _)m 糸魚川巡拝、最後はこちら、田伏奴奈川神社です 今回も順番や移動手段を調べまくりましてなんとか見付けたのが今回のルートでした、白山神社から弁天岩が最短で行けたことからバスに乗って神社目の前に到着です!超便利!( ´ω` )/ すみません、てっきり小規模かと思ったのですがこの社号標と大きな鳥居からするとかなりしっかりしているような っと、しかもほら、短いけれどわざわざ太鼓橋がある こりゃささっとご挨拶させていただいて時間が余ったら目の前の海岸にでも、なんて思っていたどころじゃないぞ、と氣を入れ直す それでは、いざ!! っと?! 足元に祠が?! いや、矢印か? ん…
石上神宮から来た 守護霊の名前 一年祭祀を手伝ってくれている 石上神宮からやって来た崇神天皇の守護霊 もう一年経つから名前を聞いても良いか と確認したところ 弥生時代の名前はソシンと言う名前で 物部氏の軍事勢力を担当していた そして平安時代はオキサダと言う名前で 今は、ホコノミヤと言うお宮にいて 戦国時代の刀や武術に使う武器の神様として 自分は祀られていると言うのです。 また、オキサダと言う名前が平安時代に 実在したか古文書で調べて仰天した。 オキサダとは三条天皇のことを指していて ホコノミヤと言うお宮は茨城県の日立市と 茅ヶ崎に実在しており ホコノミヤには天照大神様がいらっしゃり そのホコノ…
訓読 >>> 1053我が大君(おほきみ) 神の命(みこと)の 高知らす 布当(ふたぎ)の宮は 百木(ももき)盛り 山は木高(こだか)し 落ちたぎつ 瀬の音も清し 鴬(うぐひす)の 来鳴く春へは 巌(いはほ)には 山下(やました)光り 錦(にしき)なす 花咲きををり さを鹿(しか)の 妻呼ぶ秋は 天霧(あまぎ)らふ しぐれをいたみ さ丹(に)つらふ 黄葉(もみち)散りつつ 八千年(やちとせ)に 生(あ)れ付かしつつ 天(あめ)の下 知らしめさむと 百代(ももよ)にも 変るましじき 大宮所(おほみやところ) 1054泉川(いづみがは)行く瀬の水の絶えばこそ大宮所(おほみやところ)移ろひ行かめ 1…
目次 猶太人問題の全貌標題目次一 驚くべき猶太人の勢力/3二 最近の猶太人問題/6三 猶太人問題とは何か?/10四 フリーメーソンと猶太人/19五 猶太人の人口及財力/22六 日本の猶太人對策/28 『猶太人問題の全貌』山川直夫 著 一 驚くべき猶太人の勢力 世の中には牽強付会なことを語って、世人を惑わすものがいる。当今の言葉でいうとデマである。今、ここに述べようとするユダヤ問題も、今まで関心を持たない人々が読めば、一種のデマのように思われるかもしれない。しかしこのユダヤ人問題は、牽強付会の話でもなければ、デマでもない欧米では知られすぎる程に知られた事である。また、日本でも、だいぶんユダヤ人問…
「邪馬台国」は佐賀(豊玉姫の父のハデツミのウテナ=臺・現在の吉野ケ里遺跡)。「復立・卑弥呼」(世襲2代目の世襲足/国宝指定・我が国最古の尾張氏系図に記載)の所在地は、志賀(現在の滋賀県/大津のシノ宮の所在地)として特定しました。因みに、画像の大型?「甕棺墓」は伊万里からも出土しています~。 … ハデツミとは住吉系の宗像の子で、山幸彦=彦火火出見尊がハデツミの子の豊玉姫を娶り、筑紫(九州全体の意)を統一した後の筑紫の32縣の統治を任された王であった。因みに、「ヤマト」とは、その当時(3世紀末頃)の小国連合体制を纏めていた大祭司に因る宮中祭祀1巡年数価「294」の秘儀教義文言「ヤ276+マ15+ト…
どうも、ひのきですm(*_ _)m 本日はこちら、能生白山神社です(*´ω`*) 10月半ば、実はちょっと前から考えてはいたのですがタイミングを逃したなー、ということで諦めておりましたが、僅か数日前、急に思い立って 行ってしまえーっ!! ということで糸魚川行きを手配してしまいました(≧∇≦) 前夜、東京駅へと向かい蟹の化石にご挨拶w 夜行バスに揺られて一路日本海へ...え? いい歳こいて身体に辛い夜行バスかよ、って感じですが若い頃こそ予算削減を主目的にしておりましたが今では違う、七尾行きでもそうでしたが到着が早く早朝から動けることこそが特大メリット!! ただし、コロナ禍以降は上越行きが無くなっ…
栃木県宇都宮市にあります、下野国一宮「宇都宮二荒山神社」を紹介しましょう。 御祭神は 豊城入彦命 ( とよきいりひこのみこと ) 相殿神は 大物主命 事代主命 創建は 第10代崇神天皇の頃、第一王子の豊城入彦命が三輪山の大物主命を勧請したのが始まりです。 共に祀られている事代主命は、大物主命の御子神です。 ちなみに大物主命は、大国主命の同体異名です。 第16代仁徳天皇の時代に、下野国国造に任じられた奈良別王が、曽祖父の豊城入彦命をお祀りしました。 この辺りのことは伝説に域を超えませんが、史実かもしれません。 この神社は、最初の大鳥居を潜ったらすぐに95段の石段があります。 それを上り切ると門が…
古代の人物、武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)とその反乱を取り上げる。武埴安彦命や周辺の事象から武埴安彦に込められた歴史の謎を取り上げる。次の流れで紹介していく。 ・武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)・埴安媛(ハニヤスヒメ)・崇神天皇(すじんてんのう)・武埴安彦の反乱・福島県の杵ガ森古墳・日本書紀の武埴安彦の反乱エピソード・建波邇安の読み方に関する推測・イリ王朝・ターキー朝の反逆があったのか ■武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)第8代・孝元天皇の皇子とされる。 古事記、日本書紀では次のように記される。・古事記: 建波邇安王 建波邇夜須毘古命 ・日本書紀: 武埴安彦命 生年は不明、没…
どうもこんにちは。 よしひろです。 論文で言うところの緒言は最後に書くタイプなので、旅行に行ってから2か月後の今、この導入部分を書いています。 2カ月もかかってしまった。どうしてだろう。思い当たる節しかない。 とりあえず麻雀はやめます(やめない)。 ともかく、書き起こしたらめちゃくちゃ長くなったので、暇な人だけ読んでください。 9月23日開催の京都合同に合わせ、奈良は三輪山と明日香村、京都は木津川とみやこめっせに行ってきました。 旅程もろくに考えられずほぼ思い付きに近い形ですので、たぶん参考にならないです。 それでも良い方は、読み進めてください。^^