その年は喪中のため即位の行事も取やめになったが、暮の二十四日、東の御方、建春門院《けんしゅんもんいん》の腹になる、後白河院の皇子に親王の宣旨《せんじ》があり、明けて、年号が変って仁安《にんあん》となった。この年の十月、この皇子が東宮になられたが、何と東宮は伯父《おじ》で六歳、天皇が甥《おい》で三歳という、全く政権争いの格好な道具でしかなかったのだ。 仁安三年には、この天皇が位を伯父の東宮に譲り、新院になった。新院は五つ、天皇は八つ、西も東もわからない、いたいけな幼児たちは、この頽廃《たいはい》した院政の、最も大きな犠牲者だったのである。 というのも、新しく即位した高倉《たかくら》天皇の母は平家…