小説家・評論家(1891-1968).東京都牛込生まれ.早大卒. 広津柳浪の次男で,早大在学中の1912(大正元)年に同人誌「奇蹟」を創刊.はじめは文芸評論家として活躍したが,1917(大正6)年に性格破綻者を描いた『神経病時代』で小説家として注目されるようになる. 現実に密着しつつ理想を追求する強靭な批評精神により,すぐれた評論活動を行い,なかでも『作者の感想』は大正期評論の白眉とまで言われる. 主な著作には,『風雨強かるべし』『松川裁判』『年月のあしおと』などがある.
大学祭から一夜明けて、店舗会場を引払ってきた会員たちが、資材と在庫とを堂々堂倉庫へと運び込んできた。 今年の堂々堂の品揃えのなかに、もしも売れ残ったら私が引取ってもよろしいがと思える商品があった。 開催前の頭刎ねはよろしくない。つまみ食いになってしまう。利権の行使になってしまう。ズルだ。あくまでも三日間の開催期間を了えて、もしも売れ残っていたら、倉庫在庫として眠らせる前に、同価格にて引取らせてもらう。会員割引きはない。会の発足以来、その方針を貫いてきた。 目星をつけた商品は、いずれも復刻シリーズのなかにあった。 北村透谷著『蓬萊曲』明治24年5月、養眞堂刊、定価16銭。 宇野浩二著『藏の中』大…
三原堂の「池ぶくろうもなか」を用意した。手土産である。 守衛所と学科事務室とに、挨拶することになる。毎年恒例だ。時代劇のお約束において、江戸八百八町の貧乏庶民が、地域の番屋と長屋の差配とに挨拶するに似ている。 夜鍋して、新たに豆ごはんを炊いた。試みに炊いてみたぶんをどうやら食べきりそうだから、もう一度試みればもっと巧く炊けるのではないかという気になった。 麻婆茄子も仕上げた。これも最近なん度めかだ。いくらか慣れてきた。あれこれ大量に野菜を摂れるので、好都合だ。それになんとなく元気が出そうだ。景気好さそうだ。 いつもながらのゲン担ぎで、名店ベーカリーにてメンチカツパンとチーズカツサンドを買う。カ…
江戸十五代将軍徳川慶喜の墓所に詣でた。なん十年ぶりだろうか。つい眼と鼻の先までは、毎年足を運んできたのに。ということはこのペースだと、これが生涯最後の機会となるかもしれない。寛永寺の寺領域だ。 石塀と鉄柵と格子扉とに囲われて、墓石塚には近づけない。なん十年前もさようだった。石塀はしごく傷んでいて、崩れる恐れがあって危険につき近寄るなとの立札が立ち、接近禁止のロープが張り渡されてある。なん十年前にはなかったことだ。 徳川家に対しては義理も因縁もない。大変な時代に産れ合せて、人並でない人生を送った日本人の一人として、教科書で知るだけだ。 寛永寺寺領を懐深くに含んだ谷中霊園までは、年にいく度も来る。…
拙宅玄関の下駄箱の上である。ごく当りまえの、どちらかといえば、今一歩片づいていない玄関まわりもようだ。が、拙宅にあっては、当りまえではない光景である。 じつに多くの郵便物が到来する。私信はめったにない。公報の通知やら公共料金の請求書やら、企業の宣伝ダイレクトメールやら近所に開店した宅配ピザの投込みチラシまで、じつに多彩だ。冊子状のパンフレットが封入された大型郵便も多い。 私には無縁とひと眼で判る郵便物がほとんどだが、なかには詳細に読まねばならぬものも混じるし、保存を要するものもある。即ゴミか保存か、即座には判断がつかぬものまである。かりに即ゴミとは判っても、開封して封筒と普通の上質紙とアート紙…
お二人とも、紳士的な批評家であられた。表面的には。 慶應義塾の池田彌三郎教授が、こんなふうにおっしゃったことがある。自分は生涯折口信夫の鞄持ちだった。そんな自分になにかオリジナルはあるかと問われても、あるはずがない。巨大な師が残した仕事をまとめるだけで、ちっぽけな自分の生涯など了ってしまう。かつて師の門下にあって、やがて一本立ちの仕事を残した人は、師の栄養を吸うだけ吸って、独立していった人たちだ。席にちょいと斜めに腰掛けて、旅発っていったのだ。たとえば山本健吉先輩のように、またたとえば村上一郎君のように、と。 武道か茶道から出た言葉らしいが、「守破離」ということだろう。師の教えを厳格に守る、や…
広津家墓所。谷中霊園。垣内に四代の墓石と墓誌石碑とが肩を寄せ合う。 祖父弘信は久留米藩の儒者の家柄。医術を学んで長﨑にて開業するも、併せて諸外国事情を学び、やがて上京。外交官として朝鮮との国交樹立の現場担当官だった。交渉はこじれて、結果として征韓論を誘発する結果にもなった。明治16年(1983)没。孫の和郎誕生時にはすでに他界していた。 父直人は、尾崎紅葉率いる硯友社の一員たる小説家広津柳浪。明治期屈指の小説名人の一人だ。外国語学校にてドイツ語を学び東大医学部予備門に入学するも、肺病を病んで中退。父の伝手で五代友厚家に見習いとして居候し、農商務省の役人にはなったものの文学好きの駄目官吏で、免職…
昨日は、広津和郎のご命日だった。 折目正しくご命日当日というわけではなく、前後いずれかの日に墓前に詣ることにしてきた。墓参というよりは散歩だ。谷中霊園を歩いてみたり五重塔跡に立ってみたり、朝倉彫塑館が開いていたら入館してみたり、つまりは谷中・千駄木界隈をほっつき歩いてみるだけのことだ。今年も日延べした。昨日は出かけたいところが別にあったのだ。 一夜明けて今日は、台風崩れの温帯低気圧や前線の位置関係から、いくらか残暑も弛んだ。散歩日和とすらいえよう。だが昨日も一昨日も、今現在の私の体力にしては強行軍だった。その割には、睡眠も十分ではない。体重は減っているのに、どことなく躰が重い。しかも世間の暦で…
「栗くず餡と芋あんころ」という二種詰合せ商品だ。 しっとりした豆餡に甘露煮した栗のかけらが混じる。砂糖の山に砕いた氷砂糖が混じっているようなものだ。それを半透明の葛で包んで、清涼感を見せている。また念入りに裏ごししたような薩摩芋ペーストで、よく伸びて歯応えも本格的な餅を包んである。あわしま堂(栃木県佐野市)謹製商品だ。 サミットストアの和菓子ワゴンで「新商品」と銘打って、ふたしな各三個づつ、計六個の詰合せパックが眼を惹いたので、買ってみた。新工夫して世にお目見えした菓子というわけではなく、かねて自慢のふたしなをセットにして、味も見映えも夏向きのパック商品にしたという意味だろう。 一日に各一個づ…
昭和16年(1941)12月8日、神戸のホテルのルームで朝寝を決込んでいた徳川夢声のもとへ、岸井明が駆込んできた。慌てた様子で、扉も開けっ放しのままだった。東條英機首相のラジオ放送が始まるという。 夢声は月初めから湊川新開地の花月劇場で芝居の興行中だった。演目はドタバタ諷刺喜劇「隣組鉄条網」で、谷崎トシ子(戦後の人気歌手江利チエミの生母)ほかの共演による、十日間興行だった。浅草での初演が当ったのを観て、それではと吉本興業が神戸へ持ってきたのである。 おりしも唄えるコメディアンとして人気者だった岸井明が阪急会館で音楽ショーの興行中で、同じホテルに宿泊していた。 昼夜二回興行とはいっても、芝居の準…
永山正昭『と いう人びと』(西田書店、1987)。こういう本は、けっして古書肆に出したりはしない。 著者は海員組合でひと苦労したあと、「しんぶん赤旗」の編集部員だった。労働組合運動隆盛の戦後期にあってさえ、ひときわ激しかったとされる船員組合の逸話は、現在となっては伝説だろうが、その時代を知る著者である。 が、本書は労働組合運動史でも日本共産党史でもない。折おりに接した先輩知友の人柄を偲ばせる逸話集にして、人物回想録である。十名を超える人びとの横顔が回想されてあるが、労働運動や党活動のなかで接した人だろうから、私ごときが名を知る人はほとんどない。中野重治と広津和郎くらいのもんだ。 七曲り八曲りあ…