小説家・評論家(1891-1968).東京都牛込生まれ.早大卒. 広津柳浪の次男で,早大在学中の1912(大正元)年に同人誌「奇蹟」を創刊.はじめは文芸評論家として活躍したが,1917(大正6)年に性格破綻者を描いた『神経病時代』で小説家として注目されるようになる. 現実に密着しつつ理想を追求する強靭な批評精神により,すぐれた評論活動を行い,なかでも『作者の感想』は大正期評論の白眉とまで言われる. 主な著作には,『風雨強かるべし』『松川裁判』『年月のあしおと』などがある.
拙宅玄関の下駄箱の上である。ごく当りまえの、どちらかといえば、今一歩片づいていない玄関まわりもようだ。が、拙宅にあっては、当りまえではない光景である。 じつに多くの郵便物が到来する。私信はめったにない。公報の通知やら公共料金の請求書やら、企業の宣伝ダイレクトメールやら近所に開店した宅配ピザの投込みチラシまで、じつに多彩だ。冊子状のパンフレットが封入された大型郵便も多い。 私には無縁とひと眼で判る郵便物がほとんどだが、なかには詳細に読まねばならぬものも混じるし、保存を要するものもある。即ゴミか保存か、即座には判断がつかぬものまである。かりに即ゴミとは判っても、開封して封筒と普通の上質紙とアート紙…
お二人とも、紳士的な批評家であられた。表面的には。 慶應義塾の池田彌三郎教授が、こんなふうにおっしゃったことがある。自分は生涯折口信夫の鞄持ちだった。そんな自分になにかオリジナルはあるかと問われても、あるはずがない。巨大な師が残した仕事をまとめるだけで、ちっぽけな自分の生涯など了ってしまう。かつて師の門下にあって、やがて一本立ちの仕事を残した人は、師の栄養を吸うだけ吸って、独立していった人たちだ。席にちょいと斜めに腰掛けて、旅発っていったのだ。たとえば山本健吉先輩のように、またたとえば村上一郎君のように、と。 武道か茶道から出た言葉らしいが、「守破離」ということだろう。師の教えを厳格に守る、や…
広津家墓所。谷中霊園。垣内に四代の墓石と墓誌石碑とが肩を寄せ合う。 祖父弘信は久留米藩の儒者の家柄。医術を学んで長﨑にて開業するも、併せて諸外国事情を学び、やがて上京。外交官として朝鮮との国交樹立の現場担当官だった。交渉はこじれて、結果として征韓論を誘発する結果にもなった。明治16年(1983)没。孫の和郎誕生時にはすでに他界していた。 父直人は、尾崎紅葉率いる硯友社の一員たる小説家広津柳浪。明治期屈指の小説名人の一人だ。外国語学校にてドイツ語を学び東大医学部予備門に入学するも、肺病を病んで中退。父の伝手で五代友厚家に見習いとして居候し、農商務省の役人にはなったものの文学好きの駄目官吏で、免職…
昨日は、広津和郎のご命日だった。 折目正しくご命日当日というわけではなく、前後いずれかの日に墓前に詣ることにしてきた。墓参というよりは散歩だ。谷中霊園を歩いてみたり五重塔跡に立ってみたり、朝倉彫塑館が開いていたら入館してみたり、つまりは谷中・千駄木界隈をほっつき歩いてみるだけのことだ。今年も日延べした。昨日は出かけたいところが別にあったのだ。 一夜明けて今日は、台風崩れの温帯低気圧や前線の位置関係から、いくらか残暑も弛んだ。散歩日和とすらいえよう。だが昨日も一昨日も、今現在の私の体力にしては強行軍だった。その割には、睡眠も十分ではない。体重は減っているのに、どことなく躰が重い。しかも世間の暦で…
「栗くず餡と芋あんころ」という二種詰合せ商品だ。 しっとりした豆餡に甘露煮した栗のかけらが混じる。砂糖の山に砕いた氷砂糖が混じっているようなものだ。それを半透明の葛で包んで、清涼感を見せている。また念入りに裏ごししたような薩摩芋ペーストで、よく伸びて歯応えも本格的な餅を包んである。あわしま堂(栃木県佐野市)謹製商品だ。 サミットストアの和菓子ワゴンで「新商品」と銘打って、ふたしな各三個づつ、計六個の詰合せパックが眼を惹いたので、買ってみた。新工夫して世にお目見えした菓子というわけではなく、かねて自慢のふたしなをセットにして、味も見映えも夏向きのパック商品にしたという意味だろう。 一日に各一個づ…
昭和16年(1941)12月8日、神戸のホテルのルームで朝寝を決込んでいた徳川夢声のもとへ、岸井明が駆込んできた。慌てた様子で、扉も開けっ放しのままだった。東條英機首相のラジオ放送が始まるという。 夢声は月初めから湊川新開地の花月劇場で芝居の興行中だった。演目はドタバタ諷刺喜劇「隣組鉄条網」で、谷崎トシ子(戦後の人気歌手江利チエミの生母)ほかの共演による、十日間興行だった。浅草での初演が当ったのを観て、それではと吉本興業が神戸へ持ってきたのである。 おりしも唄えるコメディアンとして人気者だった岸井明が阪急会館で音楽ショーの興行中で、同じホテルに宿泊していた。 昼夜二回興行とはいっても、芝居の準…
永山正昭『と いう人びと』(西田書店、1987)。こういう本は、けっして古書肆に出したりはしない。 著者は海員組合でひと苦労したあと、「しんぶん赤旗」の編集部員だった。労働組合運動隆盛の戦後期にあってさえ、ひときわ激しかったとされる船員組合の逸話は、現在となっては伝説だろうが、その時代を知る著者である。 が、本書は労働組合運動史でも日本共産党史でもない。折おりに接した先輩知友の人柄を偲ばせる逸話集にして、人物回想録である。十名を超える人びとの横顔が回想されてあるが、労働運動や党活動のなかで接した人だろうから、私ごときが名を知る人はほとんどない。中野重治と広津和郎くらいのもんだ。 七曲り八曲りあ…
『斎藤茂吉全集』全36巻(岩波書店、1973 - 76)。 宇野浩二の神経衰弱がひどくなって、だれの眼にも療養が必要と瞭かになったとき、夫人から相談された広津和郎はまずもって、青山脳病院の斎藤茂吉院長に往診を依頼した。他の往診先の帰途、こころよく立寄ってくれた茂吉は宇野を丁寧に診察してくれたが、その場のもようを広津和郎は後年『あの時代』に書き留めている。 「夜は、ゆっくり眠れますかな?」 「はい。二時間も眠れば十分です。またいくらでも、仕事ができます」 「それはよろしいですなぁ」 病状を認めたくない強気の宇野をあやすように、茂吉は丁重な口調で問診したという。診察後、別室で広津は茂吉に今後の養生…
吉川英治『私本太平記』全13巻(毎日新聞社、1959~62)定価各260円 吉川英治の時代というものが、たしかにあったようだ。徳川無声の語りによる『宮本武蔵』ラジオ朗読番組放送時間には、銭湯ががら空きになったという伝説は戦前の噺だ。戦後になっても、出世作『鳴門秘帖』はテレビ時代劇にもなった。観ていた少年(つまり私)は原作者の名前なんぞ知ろうともしなかったけれども。 戦後執筆の大作となれば『私本太平記』と『新・平家物語』だろう。その頃はすでに、辺りを払う大家による尊いお仕事といった印象だった。 父の牧場経営が失敗して家産傾き、騎手を夢見た馬好きの少年は小学校も中退して、かずかずの職業を経験しなけ…
この齢になってもまだ、アヤメ、ハナショウブ、カキツバタ、つまりアイリス系の花形の観分けができない。困ったものだ。 また寝そびれちまった。深夜に一度眠気が差したのだったが、ちょうど昔の映画を観ていたから、最後まで観てから寝ようと思い、そこがユーチューブの便利さで、いったん動画停止して珈琲を飲んだ。小腹が空いたというやつで、餡まんを一個ふかして食べた。映画は上機嫌で観了えたものの、眠気はどこぞへ消し飛んでしまった。 あの小説のあの場面はどうなっていたんだっけかと、先日ふと気になった作品があっった。藤枝静男『或る年の冬 或る年の夏』である。どうせなら冒頭からと、つい読み始めてしまったら、思いのほか時…