比叡山一帯を境内に持つ、天台宗の総本山。 788年に最澄が一乗止観院として創建し、823年延暦寺の寺号を賜った。 境内は東塔・西塔・横川の三地域に大きく分かれている。
国宝の根本中堂を中心とする地域。延暦寺発祥の地。
釈迦堂や常行堂・法華堂が並ぶ通称「にない堂」などが有名。
横川中堂を中心とする地域。横川中堂は1971年に再建されたもの。西塔から4キロほど離れている。
安元《あんげん》三年三月五日、 藤原師長《もろなが》は太政大臣、 その後を重盛が襲って内大臣に任命された。 当然内大臣になるべき、 大納言 定房《さだふさ》を越えての栄進であった。 ところで話は二年程さかのぼって安元元年 加賀守《かがのかみ》に任ぜられた師高《もろたか》という男があった。 彼は例の西光の息子である。 この男、人を人とも思わぬ暴君で、 加賀国一円に暴政の限りをつくし、 悪評ふんぷんたるものがあった。 ところでこの弟の師経《もろつね》が、 又兄貴に輪をかけたような乱暴者で、 加賀の代官に任ぜられた時、 鵜川という山寺で、 僧侶がお湯を沸かして浴びていたのをみつけると、 あっというま…
永万《えいまん》元年の春頃から、 病みつき勝ちだった天皇の容態が急変し、 六月には、 大蔵大輔伊岐兼盛《おおくらのたいふいきのかねもり》の娘に生ませた 第一皇子に位を譲られた。 間もなく七月、二十三歳という若さで世を去った。 時に新天皇は二歳という幼な児であった。 天皇の葬儀の夜、一寸《ちょっと》した争い事が起った。 元々、天皇崩御の儀式として、奈良、京都の僧侶がお供をして、 墓所の廻りに額《がく》を打つ習慣があった。 それも順序が決っていて、 第一が、奈良東大寺《ならとうだいじ》、次が興福寺《こうふくじ》、 延暦寺《えんりゃくじ》という順で、代々守られてきたのである。 ところがこの日、何を思…
大阪は明日雨模様のようなので、花粉が沢山飛んでるようですが、天気が良く、春の陽気なので比叡山へ登ってみることに。 京都河原町からバスに揺られること30分。 修学院から比叡山を目指す。 のんびりした街並みで落ち着く場所でした。 きらら坂碑から急坂登山がスタートし、少し登った場所から京都北部を眺める。 更に上に登り、途中からなだらかになったり急坂だったりを繰り返す。 それでも愛宕山や急坂続きの六甲山、摩耶山に比べればマシな気がする。 何度も休み休み登ったら90分くらいでロープウェイ駅へ到着。 2時間くらいかかるようなことが書いてあったのに予想外。 更に登り、ロープウェイの山頂駅の北側にはこんな開け…
最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか? まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低…
このブログでは、 比叡山延暦寺の歴史と自然の魅力が満載の 比叡山延暦寺についてご紹介します。 比叡山延暦寺は、 日本仏教の母山と呼ばれる天台宗の総本山で、 世界遺産にも登録されています。 しかし、 かつては織田信長によって焼き討ちされた 悲惨な過去を持つ場所でもあります。 そんな比叡山延暦寺は、 今では約2,000本のモミジやサクラなどが 美しい紅葉の名所となっており、 秋には多くの観光客が訪れます。 今回は、 比叡山延暦寺の見どころや 信長の焼き討ちの歴史、紅葉の時期や混雑状況、 駐車場やアクセス方法などを詳しくご紹介します。 また、 周辺の宿泊施設や 観光地もおすすめしますので、ぜひ参考に…
東塔・阿弥陀堂への階段 2010年12月30日 阿弥陀堂 東塔 昭和55年再興とありました
比叡山延暦寺 戒壇院 2010年12月30日 戒律を授ける・・
比叡山 「根本中堂」 2010年12月30日 延暦寺は延暦7年(788)創建とか
比叡山 ケーブル延暦寺駅 2010年12月30日 延暦寺への道
11月某日 生ものと思い出話は新鮮さが命。生ものは腐ってしまうし思い出は色あせてしまう。大事だからと言って抱きしめれば抱きしめるほど傷みが早くなるのが生もの。どんなに大切にしてもどうしても欠落してしまう思い出。いつまでも過去にとらわれず、前を向いて明日を見据え一歩ずつ歩いていこう。 ところで、邪王炎殺黒龍波って撃てるようになるんですか?(*'▽') どうも、生ものは腐る前に焼いてしまえでお馴染み邪王の炎殺クッキング!料理長の黒龍です。嫌な記憶がことごとく消し飛ぶほどの衝撃をお届けします。というわけでね、今回のメイン料理はこちら! なにか始まりそうになった気がしますが、これ以上は茨の道過ぎるので…
2024年4月8日 東京都葛飾区東四つ木にある「浄光寺」に行ってきました。 御本尊は 薬師如来、宗派は 天台宗。「木下川薬師(キネガワヤクシ)」の愛称で知られている寺院です。 仁王門 参道 本堂(薬師堂) 御朱印をいただきました 太子堂 鐘楼 境内では 植木市が開催されていました 木下川薬師の植木市は毎年、4月8日と9日に お釈迦様の誕生日(4月8日)を祝い開催されているそうです。この日も多くの人で賑わっていました。 「さだまさし」さんの「木根川橋」という歌のなかで、「木下川薬師の 植木市の日には 今でも必ず雨が降りますか···」という歌詞がでてきます。訪れた時は時折晴れ間が除く曇りでしたが…
坂本をちょっと旅したのはもう2ヶ月以上も前になってしまいました。 いやはや、全く遅筆で・・・。 ブログを書くときには事実と齟齬があるといけないので、ネット上ではあるけれど、一応調べながら書いているのです。 そして、漢字や熟語を確認することもしています、文章をより良くために。だって、僕の頭、パンくず並みの語彙しか出てこないんだもん。 なので、100文字打つのにも10分くらいかかってしまうこともしばしば、ラフラフ。 特に今回は予習をあまりしていなかったので、タイプするときになって「こんなところだったのかぁ~」「こんな建物があったのかぁ~」と感心しながら書き進めています。 さらには、「知ってたらもっ…
日吉大社の山王祭は神輿が活躍する祭としてとてもおもしろい。 ☟2024年三王祭のポスター ☟午の神事は明るいうちから準備が始まる(4月12日) ☟八王子山にある奥宮。ここには3月に2基の神輿が上げられており、それがこの夜、麓の東本宮までかつぎおろされる。標高差約185メートルを下ることになる。☟夕暮れとともに松明を持ったかつぎ手たちが集まってくる。 ☟8時半に奥宮を出た神輿は30~40分ほどで麓に到着する。 ☟4月13日の昼には花渡り式。甲冑を着た4~5歳の子供が出産を迎えた神さまに花を奉げる式であるとか。まっすぐ歩くのではない。子供が右足を斜め右へ、そして左足を斜め左へと運びつつゆっくり歩く…
藤原氏の専横を抑え、院政の始りを開いた程の、 豪気な帝であった故白河院が、 「賀茂川の水、双六《すごろく》の骰《さい》、 比叡の山法師、これだけは、いかな私でも手に負えない」 といって嘆いたという話がある。 山門の横暴振りは他にも伝わっている。 鳥羽院の時、白山平泉寺《はくさんへいせんじ》を比叡山が、 しきりに欲しがったことがあった。 余り無理な願いであったから、あわや、却下と思われたが、 大江匡房《おおえのまさふさ》が、 法皇を諫《いさ》めて、 「お断りになってもようございますが、 もしも、山門の僧兵共が、神輿《みこし》を先頭に攻めてきたら、 いかがなさいますか、面倒な事になるかも知れません…
安土桃山時代の出来事を年表にまとめた。 安土桃山時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 室町時代 後は 江戸時代 関連記事 安土桃山時代の概要 安土桃山時代の文化 安土桃山時代の出来事 1557年 (弘治3年) 正親町天皇 即位 1568年 (永禄11年) 9月 織田信長 が 足利義昭 を奉じて 上洛 1568年 (永禄11年) 11月 足利 義昭 15代将軍に 1569年(永禄12年) ルイス・フロイス 来日 1570年 (元亀元年) 石山合戦 1571年 (元亀2年) 比叡山焼き討ち 1573年 (元亀4年) 7月槇島城の戦い 1573年 (天正元年) 9月 一乗谷城の戦い 1…
室町時代の出来事を年表にまとめた。 室町時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 鎌倉時代 後は 安土桃山時代 室町時代の 初期を 南北朝時代 終期を 戦国時代 と細分化することもある。 関連記事 室町時代の概要 室町時代の文化 室町時代の小区分 室町時代の出来事 前史 1318年 (文保2年) 後醍醐天皇 即位 1331年 (元弘元年) 元弘の乱 1333年 (元弘3年) 建武の新政 1335年(建武2年)中先代の乱 1336年(建武2年) 建武の乱 室町前期 1336年 (建武3年) 建武式目 制定 1336年 (建武3年) 北朝 第2代 光明天皇 即位 南北朝時代 1337年 …
仏教には長い歴史があります。その歴史の中で日本仏教にとって特筆すべきなのは、大乗仏教の勃興、その中国化、そして、鎌倉新仏教の誕生です。それらに超特急で迫ってみましょう。 Aインドと中国の仏教 <仏教の誕生と釈迦の思想> 釈迦が生まれたのは紀元前5世紀頃(縄文時代の終わり頃)。釈迦の一生は阿含(あごん)経典群に述べられていて、それらは釈迦の伝記になっています。釈迦は自らの思想を語るだけで、書き記してはいません。これは昔の思想伝達の方法で、釈迦が亡くなった後も暫くはこの「口伝」が続きました。釈迦が亡くなった後に、弟子たちが自分たちの記憶を整理し、これを経典、つまり、お経としてまとめ、後に書物の形で…
我が宗派浄土真宗本願寺派のお勤めでございます南無阿弥陀 南無阿弥陀法然先生ありがとうございます南無阿弥陀 南無阿弥陀親鸞先生ありがとうございます南無阿弥陀 南無阿弥陀 南無阿弥陀 我が宗派浄土真宗は、一向宗派でございます南無阿弥陀 一向宗派は、あの魔神的存在の織田上総丞信長に合戦を申し込んだ宗派なのでございます南無阿弥陀 またまた比叡山延暦寺天台宗も、織田上総丞信長に合戦を申し込んだのでございます南無阿弥陀 しかしながら比叡山延暦寺天台宗は、織田上総丞信長にボコボコにされるのでございます南無阿弥陀 一方で我が宗派一向宗派は、織田上総丞信長に敗北はしなかったのでございます南無阿弥陀 あの楠兵衛正…
「ヲシテ関連文献」発掘のために比叡山延暦寺の叡山文庫に特別な許可を頂き、古文書の閲覧を進めています。日本仏教最高学府のひとつたる天台宗お膝元だけあって、「ヲシテ」は見つからないまでも、様々な発見に驚かされます。天照大神を「大日霊貴(ウヒルギ?)」と表記し、大日霊貴は天御中主が天界から地界に降下した元神であり、「御饌都神(トヨケ大神?)」と共に「治天下」された、という記述が残って(横川別当代文書 『審鎮要記』)いました。記紀に依らぬ(ホツマに近い)独自伝承といえます。同じく独自伝承としては、山王、すなわち日吉大社の神山である「八王子山」に関する伝承も興味深いものがありました。 「八王子」が何を意…
昨日は嫁さんの都立工芸高校の入学式でした。与那国島に移住して20年が過ぎ、幸せな再出発を迎えることができました。 入学式を終えて阿佐ヶ谷に帰り、二人の大好きな居酒屋で乾杯をしました。夜遅く寝たので、今日の朝はゆっくり起きて善福寺川沿いを走ってきました。 「日本史1200人」475 浅井長政(1545〜1573) 近江国・戦国大名。15歳で軍を率いて六角氏軍を破り、家臣らの勧めにより16歳で家督を継いだ。織田信長が同盟を求めてきた時には“父・久政との盟友・朝倉義景を独断で攻めない”との条件を付け、信長の妹・お市の方を正室に迎えた。ところが1570年に織田軍が朝倉氏に侵攻したため、長政は旧敵の六角…
2009/08/03(月) 前回に引き続きまして、歎異抄第2章を読みたいと思います。おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。関東から命がけで京都まで訪ねてきた門弟たちに親鸞聖人がおっしゃったと言われる言葉です。ここで、「…
二条帝の葬儀の際の、興福寺と延暦寺の争いは比叡山の僧兵が、 大挙して山を下るという噂《うわさ》が拡がった。 この時誰がいい出したのか、 「何でも、後白河院が、平家追討を叡山の坊主に申付けられたって話だぞ」 といったたぐいの噂が、まことしやかに、 人の口から口へと語り継がれていった。 慌《あわ》てた平家方は、御所の囲りをがんじがらめに警戒し、 一門は六波羅に集って、善後策を協議することになった。 慌てたのは、後白河院も同じである。 日頃から、平家の専横を快く思っていないだけに、 アリバイが危いとばかり、早速、車をとばして、 これも又六波羅へかけつけた。 何が何だかわからないから、清盛も不安で仕方…
次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智と…
戦国時代の出来事を年表にまとめた。 戦国時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 室町時代 後は 安土桃山時代 広義の室町時代に含まれる。 戦国時代の概要 戦国時代の文化 戦国時代の出来事 1449年 (文安6年) 足利 義政 8代将軍に 1455年 (享徳3年) 享徳の乱 1465年 (寛正5年) 後土御門天皇 即位 1467年 (応仁元年) 応仁の乱 1470年 (文明2年) 京極騒乱 1471年 (文明3年)山名豊之の殺害事件 1473年 (文明5年) 足利 義尚 9代将軍に 1479年 (文明11年) 毛利次郎の乱 1487年 (長享元年) 長享の乱 1487年 (長享元年)…