慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが勃発した。ということで、今年はじめての更新は、鳥羽伏見の戦いについて書こうと思う。 鳥羽伏見の戦い 鳥羽伏見の戦いとは 圧倒的に優勢だったはずの幕府軍 そもそも徳川慶喜は戦うつもりはなかった 慶喜は会津、桑名を抑えられず 薩摩藩邸焼き討ち事件 敗因は戦略戦術の不在と現場指揮官の能力不足 鳥羽伏見の戦いとは まずは鳥羽伏見の戦いのあらましをざっくり。慶応4年(1868)1月3日、大阪から入京をしようとした旧幕府軍と新政府軍(というか薩長両藩)が鳥羽と伏見で衝突、戦端が開かれた。 両軍の兵力は、新政府軍5,000人に対して旧幕府軍は15,000人。兵力…