夜会帰りらしい馬車が石畳を鳴らして走り抜け、跳ね上がった泥が歩道の少年にかかる。少年は袖で顔をぬぐうだけで、声も上げない。窓に紋章の入った馬車へ何か言ったところで、あとで面倒になるのは自分のほうだと分かっているからだ。 19世紀末のロンドン。工場の煙突が林立し、鉄道が延び、大英帝国は世界中の富を吸い上げていた。ただし集まった富がどこへ流れるかは、生まれた家の名前で先に決まっている。貴族が誰かを踏みつぶしても、法廷の空気は加害者の側へ傾く。 こうした場面に対して、探偵小説はふつう探偵を差し向ける。足跡を読み、嘘を崩し、犯人を法へ引き渡す。『憂国のモリアーティ』はその順序を使わない。法が届かないの…