佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その8」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ) - YouTube 〔感想〕 取しゅの親玉、我語取がごしゅ (「自己」への執著)について 仏法の無我を語るのは、なぜ困難なのか。 語るには当然言語が必要で、 言語には主格(自己)が前提されてるからだ。 しかも、それだけではない。 人類は、現在に至るまで我語取のいかに物凄まじい欠陥を見せつけられ続けても、これを捨て去ろうなどとは露程もおもったことがない。 なにしろ現人類は、貪瞋痴の苦しみを、夢中で楽しんでる真っ最中だからだ。つまり無我への志向が全くない。 自我は砂上楼閣。 とはいえ、この砂上楼閣の頑丈さよ! …