前回の続き。 実のところ、前回を書くまでは鍾離斐が黎斐と書かれたのは孫鍾の名を避けたために違いない、そうひそかに盛り上がっていた。 だが、王昶伝に鍾離茂を斬った、とあるのは鍾離茂がなにか名前に関するものを身に着けていたとか、魏の捕虜となった呉の兵が魏側に鍾離茂の名を伝えたとかいくつかの理由が考えられるが、いずれにしても改姓まではしていなかったと思われる。もちろん改姓していたうえで三国志編纂の際に陳寿が「離茂」なり「黎茂」なりを鍾離茂に直した可能性はゼロではないがあまり考えにくい。となると、孫鍾の名は関係ないのかとも思えてきてしまった。 取り合えずは先に進めよう。三国志呉書において他に「鍾」が使…