(1902〜1968)
昭和時代の映画俳優、監督。
1902年(明治35年)6月10日、神田生まれ。京華中学を卒業後、シンガポールに移住。大正11年に帰国して、松竹蒲田撮影所に入社するも、一年半程で辞めてしまう。大正13年に日活京都撮影所に転じ、村田実監督『街の手品師』(1925年)を皮切りに、『愛に輝く女性』『東洋のカルメン』などに矢継ぎ早に出演する。大正15年、松竹蒲田撮影所に再入社して、伝明・絹代コンビでヒットした牛原虚彦『感激時代』(1928年)に出演したあとは、小津安二郎監督作品『若人の夢』『女房紛失』『カボチャ』『肉体美』(以上、1928年)『学生ロマンス 若き日』『会社員生活』『突貫小僧』(以上、1929年)『結婚学入門』『落第はしたけれど』『エロ神の怨霊』『足に触った幸運』(以上、1930年)などに相次いで出演し、岡田時彦とともにサイレント映画時代の小津作品に欠かせない俳優となる。昭和4年に日活を辞めて蒲田に入社してきた岡田時彦とは『その夜の妻』(1930年)で初共演した後、『お嬢さん』(1930年)『淑女と髯』『美人哀愁』『東京の合唱』(以上、1931年)とさながらコンビを組むかのように共演し、当時小津が傾倒していたエルンスト・ルビッチばりの「ソフィスティケーテッド・コメディ」を目指すに十分な知的で繊細な演技とその醸し出すユーモアにおいて、斎藤達雄と岡田時彦は戦前の小津作品の二枚看板だったと言える。昭和7年(1932年)に主演した『生まれてはみたけれど』はサイレント時代における小津作品の最高傑作と名高い。トーキー以降は、独特の存在感を持つ飄々とした演技で、味のある傍役として多く出演するようになった。昭和43年3月2日、世田谷区梅ヶ丘の自宅で肺ガンのため亡くなる、65歳であった。
「銀座でお洒落で目立った人は、何といっても映画俳優の斎藤達雄、(中略)外人みたいで、どんな格好をしてもさまになるんです。僕のあこがれの人でした。」(益田喜頓)