日本紀。にほんき、にっぽんき、やまとのふみとも読む。
日本書紀のことで、此方の方こそ日本書紀の元の正称とする説が有利である。
例として、『釈日本紀』『大日本史』では『日本書紀』を言及する時は概ね『日本紀』という呼称を使う。
→日本書紀
ホツマツタヱでは聖なる神獣がいくつか登場しますが、「いとり」はその最たるものです。「鳳凰」と後に漢字書きされる聖鳥(瑞鳥)であり、手塚治虫さんの「火の鳥」も原型はたぶんこれでしょう。現行一万円札の裏面のデザインは、宇治の平等院鳳凰堂のものが描かれています。 シナでは、麒麟、亀、龍とともに重要視され、「鳳」は雄、「凰」は雌、と理解されているようです。また、「朱雀」として南方面を司って、「天之四霊」のひとつとされています。 ホツマツタヱでは、丹霊鳥と白霊鳥の二種が登場します。赤いイトリと白いイトリです。 『孕みの帯は カツラキの 世嗣社に 御胤 祈る』16文『時に天より 丹霊鳥の 一羽落つれば 天…
●歌は、「敷栲の袖交へし君玉垂の越智野過ぎ行くまたも逢はめやも(柿本人麻呂 2-195)」である。 【越智野】 「柿本人麻呂(巻二‐一九五)(歌は省略)・・・この歌の前にある長歌(一九四)の題詞には『柿本朝臣人麻呂献泊瀬部皇女忍坂部皇子歌一首幷短歌』とあって、これはその反歌である。題詞のままでははっきりしないので、こんにちまで脱字説やよけいな文字がまぎれているのではないかなどと諸説がある。この歌の左註に『右、或本日、葬河島皇子越智野之時、献泊瀬部皇女歌也』とあるのも、題詞に不審があったため付けられたものであろう。泊瀬部皇女と忍坂部皇子はともに天武の子(母はともに宍人▼媛娘(ししひとのかちひめ)…
令和6(2024)年9月8日から、 両国国技館で「秋場所」が始まります。 ところで、相撲は、俳句の世界では、 「秋」の季語としてよく知られています。 奈良・平安時代、宮中では、 毎年7月 (陰暦・初秋) に 「相撲節会」(すまいのせちえ) が行われたため、 秋の行事ということになったようです。 相撲の歴史 相撲の起源~神話の中の相撲~ 宮中の年中行事「相撲節会」(すまひのせちえ) 武家社会における相撲 現在の大相撲は江戸時代にほぼ確立 明治以降の相撲 現在の相撲 祭りの儀式 独り相撲の語源「一人角力」 力士達の一挙手一投足 邪気を払う「四股踏み」 土俵を清める「塩まき」 体を清める「力水」 相…
●歌は、「・・・畝傍の この瑞山は 日の緯の 大御門に 瑞山と 山さびいます ・・・(作者未詳 1-52)」である。 【この端山】 「作者未詳(巻一‐五二)(歌は省略) 藤原宮の造営には役民歌(巻一‐五〇)によると、近江の田上(たなかみ)山(大津市東南部)の良材を宇治川に流し、木津川から筏にくんでさかのぼらせ、木津から大和にはこんだらしい。多くの役民が『家忘れ身もたな知らず』『鴨じもの水に浮きゐて』労役奉仕したものだ。こうしてできあがった藤原宮の永遠をことほぐ歌が『藤原宮の御井の歌』である。作者はわからないが、人麻呂のにおいを考える人もある。歌は、持統天皇が、埴安の堤に立ってごらんになると、と…
行基について。次の流れで紹介していく。 ・行基・菩提僊那(ぼだいせんな)・猪名部百世(いなべのももよ)・行基と続日本紀・773年条・大僧上舎利瓶記とは・大僧上舎利瓶記の内容 ■行基(ぎょうき)668年~749年にかけて活動した仏教僧。 行基は24歳で受戒、その後、飛鳥寺に入ったという。 そして、14年もの間、月の半分は山林で修業、残りの半分を経典で学習を行う生活を続けたという。 40代後半から民間への布教を始めた。行基が活動していた当時は仏教の民衆への直接の布教が禁止されていたという。しかし、行基はそれを破り、民衆、豪族などの身分を問わず広く仏教を説いた。 これに対して行基は朝廷から弾圧を受け…
さて、本日は夏の全国高校野球で優勝した京都国際高校の校歌を巡る問題について扱っていきます。 初めて来られた方はまずこちらを先に読む事をお勧めします。ブログ『日韓問題(初心者向け)』を始めた理由 - 日韓問題(初心者向け)注意 ・このブログは「日韓の価値観の違い」を初心者向けに扱っています・当ブログのスタンスは「価値観に善悪や優劣は存在しない」というものです・相手が不法を働いているからと、こちらが不法をして良い理由にはなりません・自身の常識が相手にとっても常識とは限りません、「他者がそれを見たらどう思うか」という客観性を常に持ちましょう・日常生活で注意する程度には言動に注意を心がけてください 夏…
原稿が遅々として進まないので、近況でも話そう。 「――できたんですか、本当に。そんな事が」 七月二十九日の夜。私と生方は天体観測の為にステラ宅に招かれていた。以前訪れた時もそうだったように、ダイニングのテーブルには手の込んだ料理の数々が並べられている。“フリッタータ”と呼ぶらしいオムレツのようなものから始まり、目にも鮮やかなトマトスープ、白ワインで煮込まれたアクアパッツァ…… そしてメインはマグロのグリルだった。「魚介類が安かったので、イタリア料理でまとめてみました」と微笑むステラを尻目に私は目の前の料理に舌鼓を打った。その隣では生方がオールスパイスの使い方がどうのとか、オリーブオイルの香りが…
●歌は、「哭沢の神社に御瓶据ゑ折れども我が大君は高日知らしぬ(檜隈女王 2-202)」である。 【哭沢の神社】 「檜隈女王(ひのくまのおほきみ)(巻二‐二〇二)(歌は省略)・・・高市皇子のなくなったときの人麻呂の挽歌のあとに、『或書反歌一首』として、この歌があげられ、その左註に、『類聚歌林』(山上憶良が編んだ類聚の歌集)には、檜隈女王が泣沢神社を怨んだ歌とある。下の句には人麻呂のにおいがないではないが、もともとは、檜隈女王の歌かもしれない。檜隈女王は伝未詳だが、高市皇子の後宮か子かであろう。おみきをお供えして祈ったけれど、とうとう高市皇子はお亡くなりになってしまったと、嘆き怨む歌である。その哭…
子ヤギ 里久浜海岸から徳之島町の中心地、亀津へ向かって南下する。途中、徳之島の英雄、第46 代横綱・朝潮太郎記念像の前を通り過ぎ、クジラ岬に向かうが、リゾートホテルの庭になっているようなので諦めた。県道へ戻る途中、子ヤギが2頭、空き地で無邪気に飛び跳ねながら遊んでいた。 徳之島町立郷土資料館、あまみゆ(奄美世) 亀津には、徳之島町立郷土資料館がある。徳之島の歴史や文化や自然などを紹介している。歴史は、あまみゆ(奄美世)から始まる。天城町の歴史民俗資料館でも見たように、旧石器時代から人が住み、縄文〜弥生時代には共同体を形作っていたとされる。徳之島の名が初めて史書に登場するのは、『続日本紀』に書か…
大学生時分の話をしよう。―――子供らの歓呼の声が聞こえる。奥座敷で目を覚ました老人は緩やかに上体を起こした。唐風の古い邸宅である。その老人はかつて、下級役人の子に生まれながら学者として立身し、六名の天皇に仕え、正二位右大臣にまで上り詰めた。のちに奈良時代と呼称される事となる、彼の生きた時代は、即ち彼の時代でもあった。老齢を理由に辞職を願い出る事幾度か…… 遂に許されたのが四年前。老人は侍者と共に住む場所を変えて、余生を過ごしていた。老人の周囲には、時間そのものが緩慢になってしまったかのような空気が纏わりついており、それらを引き連れながら奥座敷を出ていった。彼の顔には深い皴が刻まれて、蓄えた白い…
もうすっかり秋めいてきたので、高校生時分の閑話でもしよう。 私達の車は一度県道を使って北上した後、小又林道と呼ばれる道路を走行していた。路面の凹凸を体感できるほど舗装が甘いその道は、白線も満足に引かれていない。遠くには太平山をはじめとする山々が聳え立っているが、そこに用はない。目的の小又大滝は、その手前の大滝山の側…… 名前すら付いていない無名の峰に存在している。小又林道に入って数キロ進むと、完全な砂利道となり、やがて赤錆びた門に突き当たった。まるで侵入者を拒むように設置されているが、車一台なら通れる程度の隙間がある。先客が来ているのは間違いない。 映は、慎重なハンドル捌きで門の隙間を通り抜け…
竹田恒泰が古墳を 現代に復活させるとか言っている。https://news.biglobe.ne.jp/economy/0815/prt_240815_2870710592.html これって後世の研究者を撹乱する事になりはしないかと 危惧するものです。 そもそも、古墳時代が終焉していったのは 場所をとるからというのもあるんですね。 百済仏教勢力が権力を握るにつれて 寺院へと移行して行った。 今の学者は古墳時代をその前の 方形周溝墓などの時代から切り離して 主に箸墓以降を古墳時代と呼んでるけれど それも扶餘=高句麗=百済系の騎馬民族の都合 の可能性が高い。 何故かと言えば、 箸墓からは馬具が出…
源氏物語の一巻を読了 角田光代訳『源氏物語 1 』を読んだ。 この長大な物語を読もうと思ったきっかけは、もちろんNHK大河ドラマ『光る君へ』の後押しがあるけれど、実はちょうど10年前にNYのBOOKOFFで、与謝野晶子訳の『源氏物語』を見つけ「読みたい…!」と思ったにも関わらず、そのままになっていたことがずっと頭の片隅にあったから。 ▲ Facebookに投稿していたポスト こんなリングで綴じられた本を見るのも初めてだったので、やたらと印象に残っている。 それでも読まずに今まで来たのは、やはり長大なのを分かっているので、なかなか読む覚悟が決まらなかったからだ。 ちなみに調べてみたところ、このフ…
和気郡 の式内社は、1座です。神根神社(コウネジンジャ)。式内小社です。 『 和気郡 』は、Wikipedia では、 721年(養老5年)に赤坂郡より東部(吉井西岸地域)・邑久郡より北部・北東部それぞれ割譲し設置された藤原郡(東野郡、藤野郡)が、788年(延暦7年)に吉井川を 境に西側を磐梨郡、東側を和気郡として分割して設置された。 当地は奈良・平安時代に活躍した和気清麻呂の出身地域であり、隣接する磐梨郡とともに豪族和気氏の勢力下にあった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『岡山県神社庁』では、 旧社格 : 郷社 鎮座地 : 備前市吉永町神根本1147 御…
https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/05/111331 「幻の城柵「払田柵」…羊蹄柵が有り得る根拠」… https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2023/04/04/071045 「秋田の石積み構築年代上限と「和鏡探し」の特別ミッション…秋田県南を回れ!、そして宗教的背景を探れ!!」… これらを前項として。 この第一項から https://tekkenoyaji.hatenablog.com/entry/2020/05/01/151154 「「原点回帰」…古代秋田城」 実はこの8月でこんな歴…