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春風亭柳橋

(アート)
しゅんぷうていりゅうきょう

東京落語の名跡。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

六代目

1899年10月15日−1979年5月16日 本名 渡辺金太郎。東京都文京区出身。

1909年、9歳の時4代目春風亭柳枝に入門し柳童で初高座。枝雀と改名後、1917年8月17歳の時6代目春風亭柏枝を襲名して真打昇進。1921年3代目春風亭小柳枝襲名。落語睦会に所属する人気落語家となり、8代目文楽・2代目小文治・3代目柳好と並ぶ「睦の四天王」と呼ばれ、全盛を誇った。1930年、柳家金語楼とともに日本芸術協会(現在の落語芸術協会)を結成し、以降1974年までの44年間会長職を務める。戦後はNHKラジオ「とんち教室」のレギュラーで売れた。

得意ネタは「時そば」「碁どろ」「長屋の花見」「天災」「猫久」など3代目柳家小さんゆずりの滑稽噺が多い。眉毛の長い大店の隠居のような風貌が印象的であった。芸名の如くほのぼのとした芸風で、的確な描写力に優れていた。また、「・・・でな。」という独自の口調は、ラジオの寄席中継で全国の落語ファンに親しまれた。

 戦前には、新作派の金語楼に影響を受け、古典を時代に合わせて改作した「支那そば屋」「掛取り早慶戦」などを手がけた。戦前は「湯屋番」で派手な演出を試みるなど、新しい落語を創造する名手と評された。6代目三遊亭圓生は、どこまで上手くなるのか空恐ろしくなり、本気で弟子になろうかと思ったと述懐している。首相の吉田茂などが贔屓客で柳橋はよく屋敷に呼ばれて一席うかがったという。

 戦後は芸が伸び悩み、当時の落語研究会の高座で、圓生が「妾馬」で好評だったのに対して、柳橋は散散な出来で圓生は自信をつけたというエピソードがある。その後、8代目文楽や5代目志ん生、6代目圓生が昭和の名人として脚光を浴びる中、正当に評価されず不遇であった。寄席でも軽い噺や漫談ばかりなので、客から抗議されて謝る姿がみじめで見ていられなかったと弟子が述べている。それでも、たまにホール落語でじっくりと演じ往年の力量を窺わせた。

普通、落語家の大家は「師匠」と呼称するが、金語楼と6代目柳橋だけは「先生」と呼称する事が多い。

なお、「柳橋」と名乗る落語家としては6代目だが、5代目までの亭号は「麗々亭」であったためか、この6代目を初代春風亭柳橋とする説もある。
ただし、春風亭柳枝 (初代)は麗々亭柳橋 (初代)の弟子で、柳橋は初代柳枝の系統にいるので(初代柳枝→梅枝→3代柳枝→4代柳枝→柳橋 すべて春風亭)、別系統の名前を持ってきたわけではない。柳好も3代目までの亭号は麗々亭だった。

1979年没。享年79。

弟子に桂三木助 (3代目)、春風亭柳昇 (5代目)、春風亭柳好 (4代目)、春風亭柳橋 (7代目)などがいる。

七代目

1935年8月12日−2004年10月31日 本名 駒木根正男。

1952年3月、桂三木助 (3代目)に入門して桂木久夫。1956年3月二つ目に昇進し桂木久助に改名。1959年4月、師匠の三木助が芸術協会を辞めた時に、大師匠の春風亭柳橋 (6代目)門下へ移り、春風亭愛橋と改名。1964年4月に真打に昇進し、8代目春風亭柏枝となる。1982年、7代目春風亭柳橋を襲名。

得意ネタは師匠6代目柳橋譲りの芝浜など。 1974年度の芸術祭優秀賞を受賞。落語芸術協会の副会長を務めた。 2004年消化管間葉系腫瘍で死去。享年69。

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