1877〜1948 喜劇俳優・喜劇作者。本名和田久一。
明治10年堺市に生まれ、6歳で代言人(現在の弁護士)の父と死別し、祖父が住職をしている浄因寺で小坊主として育つ。14歳で小料理屋をしている母親と暮らすが、西横堀の煙草屋へでっち奉公に出される。奉公先の御寮さんが芝居見物好きの影響で、16歳の時に歌舞伎役者中村珊瑚郎の内弟子になり、1年後浪花座で中村珊之助となり初舞台。
明治36年に大阪北の福井座で中村時蔵(のちの三代目歌六)の弟子である中村時代と出会い、千日前改良座の鶴屋団十郎のニワカを見て、珊之助、時代はそれぞれ、前後亭右、左と名乗って「新喜劇」として伊丹の有岡座、尼崎の桜井座、堺宿院の卯の日座で一座を笑わせる芝居創立の為に結成するが、不評。
翌37年正月に和歌山の弁天座で「滑稽勧進帳 芸妓総出演」で当たりを取り、お囃子方の黒門のお米さんの紹介で、豊島利一さんの手で2月11日の紀元節の日に曾我廼家五郎、曾我廼家十郎と改名して浪花座で旗揚げ。丁度日露開戦の日となり、翌々日の13日から、日露戦争を題材にした「無筆の号外」が大当たりをとり、関西で大成功し、明治39年4月新富座の柿落とし公演で東京へ初進出。喜劇団の嚆矢となる。
しかし後年、文芸劇を目指した五郎は本格ニワカを目指す十郎と意見を異にし、大正3年袂を分かつ。五郎は翌年、曾我廼家五郎劇を組織。これがのちに松竹家庭劇→松竹新喜劇へと発展、既成の歌舞伎・新派に伍して喜劇という一つのジャンルを確立した。
最晩年には喉頭がんをわずらい、手術後は無声で舞台に立った。
一堺漁人の筆名で執筆した脚本は1000種を越える。