4年以上前に戦前の「本郷區駒込動坂町」時代の表札を発見していたのだが、まだ未紹介だった。 えっ! もう、そんな前だったんだ、と我ながら驚く。今回、新たに文京区になってからのものを発見したので、合わせて紹介することにしよう。①本郷區駒込動坂町 発見日 2020年2月15日 発見場所 東京都文京区本駒込三丁目 ②東京都文京區駒込動坂町 発見日 2024年4月13日 発見場所 東京都文京区千駄木五丁目 文京区になってからのものだが、「区」が旧字体なのがいいね。旧町名案内 もと下駒込村に属していたが、明治24年に東動坂上、東動坂、西動坂上、西動坂下及び動坂、東京市に編入された。町名は、町内を不忍通りに…
先日、京都仁丹樂會さんから連絡をいただいた。 京都仁丹樂會さんのご尽力により、森下仁丹が町名表示板を保存してくれることになった。 よかった。 京都仁丹樂會さんには感謝である。 うぬぼれかもしれないが、自分の活動がひとつのきっかけとなり、このような結果になったと思うと、とてもうれしい。 Finalということで、この仁丹の町名表示板に関する記事や記事に書いていないことなどをまとめてみた。 2022年2月16日~2022年3月4日 東京の木製仁丹町名表示板について(1)から(6)の記事を投稿。 citywalk2020.hatenablog.com citywalk2020.hatenablog.c…
博物館、資料館旧町名探索シリーズ第何弾だ? 文京ふるさと歴史館で「本郷區眞砂町」を発見! 発見日 2022年6月18日 発見場所 文京ふるさと歴史館(東京都文京区本郷4-9-29) 竣工当時から解体まで飾られていた清和寮の門柱の表札 「眞砂町」は以前「旧町名 眞砂町」で紹介しているが、紹介した表札は消滅してしまった。 しかし、これは「文京ふるさと歴史館」に展示されているので、ずっと歴史を伝えてくれるだろう。 戦前の写真 上の写真は、昭和13年撮影の市営真砂住宅。中央上の鉄筋アパートが清和寮、その手前から右にかけてが真砂町住宅。手前の白い家は吉池の従業員寮。 真砂町住宅と清和寮 真砂町住宅の模型…
昨日(2022年6月6日)、京都仁丹樂會さんからレプリカを設置した旨のご連絡をいただいた。 本日(2022年6月7日)代官山で所要を済ませた後、いてもたってもいられず、徒歩で2時間以上かけて、早速見てきた。 電車の方が早い? そりゃそうだが、自分のポリシーとしては、徒歩が基本なのである。 昨日、関東甲信地方は梅雨入りが発表された。 雨が降り出してきた。 たまに強く降ってくるときもある。 6月なのに東京は最高気温20℃と肌寒い感じがする。 よかった。着いた頃には雨は止んでいた。 えっ! 何だこりゃ? そもそもの形を復元したものを設置していただいたのだった。 素晴らしい! 東京に仁丹の町名表示板が…
今のところ、詳細は書けないが、ある方から、木製仁丹町名表示板が無事保護されているという連絡をいただいた。 また、この木製仁丹町名表示板が朝日新聞京都版2022年5月8日付で「古都ぶら 奇跡の1枚 東京に木版」という記事になっていることも教えていただいた。見れる方は、是非読んでいただきたい。永久保存版であること間違いなしである。 最新版といっても2022年4月4日に撮ったものだが、載せておこう。 これがまた近い将来どこかで再会できることを願っている。
本日(2022年5月9日)、目撃情報を頼りに文京区と台東区にある旧町名等を探索してきた。 文京区のものは、比較的に速やかに発見することができたので、根津に立ち寄ってみることにした。 根津神社に立ち寄り、木製仁丹町名表示板の無事を確認しに訪れた。 しかし、あるはずのところにない! 戸袋の左側に設置されていたのが、ない。 ショックで呆然と立ち尽くす。 はがされた跡が残っていた。 どこへ行ったんだ! 今日は残念過ぎて眠れないかもしれない。 心が落ち着いたら、東京の木製仁丹町名表示板について(6)の後日談を書くことにしよう。
旧町名「本郷區根津須賀町」が発見されたとの情報をネットで入手し、訪問してきた。 この場所は、たぶんマニアの方には有名な表具店なので、ご存じの方も多いと思う。そういう自分も何回か訪問したことがある。 以前は、下の写真のような「火災予防推進モデル地区」プレートが上に張られていて、下に何が隠されているのかわからなかった。(撮影日2020年9月12日) プレートで隠されてはいたが、全体ではなく、上部に本郷區の文字の一部が見えており、なんらかの住所が記載されていることが想定されていた。更に、老眼の自分の目ではよくわからないが、下部に仁丹の文字が書かれているようだ。となると東京都に残っている最後の仁丹町名…
白日会100周年記念誌のための資料すり合わせなど。 明治七年九月十八日 東京市下谷區谷中清水町に父半之助、母ゆきの長男として生る。良一呂は雅號にして本名は遼一郎なり。 大正五年 東京市本郷區根津小學校を卒業、京北實業學校に入學す。 大正七年 十六歳の時溪氏に師事日本画を學ぶ。 大正十一年 川端画學校及び本郷洋画研究所に於て洋画を研究。 大正十二年 清原重以智氏、富田温一郎氏に師事、新光洋画會(第四回展)へ出品。 大正十四年 第二回白日會へ出品、その頃の展覽會場は現在の府美術館でなく、竹之台陳列館であつた。これ以後白日會へは毎回出品。 同年洗足へ移轉す。 昭和三年 第九回帝展に「青衣」入選、同年…
はじめに この記事を、100年前、我が国の有史史上最悪とも呼ばれる自然災害に直面した、全ての人々に捧げます。 前回の記事は横網町公園の歴史について紹介していきました。ここからは、横網町公園の整備方針に深い関係がある関東大震災に焦点を当てたいと思います。 今までの記事で述べた通り、横網町公園が整備される前、被服廠跡と呼ばれた更地に避難していた約38,000人もの人々が火災により亡くなっています。なぜこれほどまでに甚大な被害となってしまったのか、調べられる範囲で確認していきたいと思います。