江戸時代中期の天皇、治天の君。諱は朝仁(あさひと)。
即位に際し長らく途絶えていた大嘗祭が行われた。
当初、霊元上皇が院生を行っていたが父上皇に実権を握られていることに不満を持ち始め、、近衛基熙や幕府の助力を得て親政を始める。
後、中御門天皇に譲位し院政を行おうとするも、その年に天然痘により崩御してしまう。
ご存知の朝廷の使節を迎える日に江戸城内で浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に切りかかり、即日切腹を申し付けられた事件である。
使節帰還後にその話を聞いた天皇は浅野の行動に理解を示し、「浅野を見殺しにしたとはけしからん」として使節を参内禁止処分にしてしまった。
吉良上野介が幕府の忠臣として朝廷に圧力をかけてきたことに対し、浅野氏はかつて自らの城の天守閣の造営をあきらめてまで内裏の修理を行った経緯があることからかと思われる。
*1:元禄赤穂事件の発端