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松平容保

(社会)
まつだいらかたもり

幕末の大名
1836年(天保6年)、美濃国松平義建の子として生まれる。
12歳の時に伯父にあたる会津藩主松平容敬の養子となる。
18歳で第9代会津藩主に就任。
1862年(文久2年)、体調不良等を理由に難色を示すも、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)、松平春獄らに説得され、幕府より「京都守護職」を拝命する。治安回復のため新撰組を使うなどして治安回復に努める。
そして孝明天皇の高い信頼を得、公武合体に尽力し、薩摩藩とむすび、尊攘急進派の長州藩土佐藩を一掃する。
しかし、孝明天皇崩御、14代将軍徳川家茂の死去、そして薩長同盟の結成、さらに15代将軍徳川慶喜の戦意喪失などにより、朝廷より逆賊の扱いを受け鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸へ逃れる。
しかし、忠誠を貫いてきた将軍徳川慶喜には江戸城への登城禁止を命ぜられ、さらに朝廷からも逆賊の汚名を着せられる。
そして会津での孤立無援の篭城戦の末、官軍に降伏、謹慎の身となる。
1880年(明治13年)、許されて日光東照宮宮司となる。
1893年(明治26年)12月5日、死去。会津松平家のしきたり通り、神道にのっとり忠誠霊神と号される。

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