世良田次郎三郎、初名は清孝。 安城松平信忠の嫡子。母は定かならず。徳川家康の祖父。 大永三年(1523)家督を継承し、岡崎松平家を攻撃。これを屈服させて岡崎に進出。 その後数年で足助の鈴木氏、東三河の戸田氏、山家三方衆などを傘下におさめた。 尾張にも進出するが守山に着陣中、重臣阿部大蔵の子息弥七郎に刺殺された。主を失った三河勢は岡崎に撤退。俗に言う守山崩れである。
徳川家康 徳川家康の「康」は祖父7代当主松平清康からとったと言われています。 若くして亡くなった清康があと5年長く生きていたなら、天下は清康の時代にとれたのではないかと言い伝えられているほどに、すぐれた武将だったようです。 目次 松平家ファミリーヒストリー 松平家7代当主清康 源氏の末裔 守山(森山)崩れ 松平家ファミリーヒストリー 三河の一有力者に過ぎなかった松平家の初代は松平親氏(ちかうじ)。 松平郷の小さな領主だった松平家を大きくしたのが三代信光(のぶみつ)(『松平氏由緒書』によると親氏の息子らしい)。 室町時代に足利将軍家と松平家の繋がりを持つことに成功したのです。 松平家は三河武士団…
松平家の祖である謎の人物親氏 今回は家康の御先祖の話。しかしこれが意外なほどに記録が残っていないらしく、その代わりに家康から逆算しての変な伝説ばかりがあったりするとか。そこをなるべく実像に迫っていくとしている。 家康の先祖といえば三河松平家だが、その発祥の地は豊田市の山奥の松平郷だとされる。そして始祖とされるのは松平親氏である。地元では没後600年を記念して銅像が建てられたが、そもそも肖像画とかが全く残っていないので、地元の人々の顔を集めた上で、松平家の肖像などと比較して想像で建てたらしい。ただなぜかどことなく異国的な顔立ちで、家康の先祖というよりは浴場技師のローマ人のようである。 何となく日…
家康の父である松平広忠、祖父である松平清康の墓所は、大樹寺にあるわけですが、他にもいくつかの場所にあり、混乱しやすいです。 8代 広忠 松平広忠の墓は、岡崎市内の大樹寺に加え、大林寺、松應寺、法蔵寺、広忠寺と5つの墓所があるということです。大林寺は、現在の岡崎城のすぐ北側にあるお寺です。 乙川の南にあった岡崎城(明大寺旧城)は、家康の祖父、広忠の父である松平清康(安城松平家)の侵攻前には、大草松平家の松平光重が主(ぬし)でした。大林寺(だいりんじ)は、1493年、松平光重が明大寺に創建し、当初は光林寺と称されていました。1530年、松平清康の命で現在の岡崎城の北に移転したということです。 15…
家康の祖父である松平清康は尾張の守山城で変死し(森山崩れ、守山崩れ)、遺骸は岡崎市中央部にある随念寺で荼毘にふされました。墓所は岡崎城の北側にある大林寺、そして松平家の菩提寺である大樹寺にあります。 7代 清康 安祥松平家の3代。安祥城城主および岡崎城主。徳川家康の祖父。安祥松平家は清康の代に岡崎を征服し、西三河を支配下においた。 随念寺 随念寺は、家康が松平清康と大叔母である於久の方(おひさ、清康の妹で、尾張に人質と出される前の竹千代を3歳~6歳まで養育)の菩提を弔うために創建されたお寺です。 白土塀と境内がとても立派なお寺です。岡崎観光のパンフレットなどではしばしば見かけます。 岡崎の中心…
「松平氏とは?」 「家康の祖父の松平元康や父の松平広忠ってどんな人?」 「改名前の徳川家康(松平元康)は何をしていたの?」 このページをご覧の皆さんはそんな疑問を持っているかもしれません。 松平氏は三河国(愛知県東部)の加茂郡松平郷を本拠地とした国人領主です。 国人領主について知りたい方はこちらの記事もどうぞ! kiboriguma.hatenadiary.jp 松平氏は7代目当主清康(家康の祖父)の時代に勢力を急拡大させ、西三河を征服しましたが、家臣の反逆にあい25歳の若さで殺されてしまいます。 清康の急死で当主となった広忠は10歳で8代目当主となりました。 しかし、幼かったこともあり広忠は…