●文政元年(1818)〜明治21(1888)年。博物学者で大旅行家。三重県松坂市の生まれ。父;桂介は紀州藩の郷士で、かの本居宣長について国学を学んだ。武四郎は再三再四、蝦夷地を訪れ、当時まだ「蝦夷地」と云っていた北海道を、アイヌ人たちの意向を採り入れて「北加伊道」と名づけた。
●近藤重蔵が択捉〔エトロフ〕に「大日本恵土呂府」の標柱を建てたのが寛政10(1798)年、伊能忠敬が幕命により蝦夷地の測量を開始したのがその翌々年;寛政12(1799)年だったことからも明らかなように、日本も領土拡大を意図して北進し始め、その関心は高かった。
●幼時から、梁川星巌や大塩平八郎、足代弘訓との知遇を得、修験道修行をし、篆刻さえ山口遇所に教わり、弘化2(1844)年から嘉永2(1849)までの5年間に、「都合3回、31ヶ月」に及ぶ蝦夷地探検調査を行った。
●嘉永6(1853)年、ペリー来航の際には水戸派の意を受けて京へ急行し、攘夷を要路に遊説したし、その際には藤田東湖・吉田松陰・藤森天山・鷲津毅堂の文を携えていた。その翌々年には幕府正式の蝦夷地専門官となって追加2年の蝦夷地調査を行っている。
●他にも木戸孝允、ジョン万次郎、北添佶摩、佐々木只三郎、成島柳北、西郷隆盛など、イデオロギーを越えた交流を持った。
●新政府には慶応4(1868)年3月、箱館府判事として出仕。
●しかし明治3(1869)年、旧幕時代の悪弊である「請負人制度」に反発して激烈な辞表と共に退任。好事家の自由人として生きる。そして精神分裂病の建築家;赤木城吉の「二笑亭」と双璧の凝りまくり建築物;「一畳敷」を建てた。
道東と言うと釧路管内・根室管内・オホーツク管内を連想する人が多いだろう。 だが「道東3管内博物館施設等連絡協議会」を構成するのはオホーツクではなく十勝なのだ。 そのためオホーツク管内の方が地理的には近いのだが、実情は疎くなりがちであった。 そんなわけで今回はオホーツク管内の博物館として美幌町と北見市の文化施設を見学して来た。 これは備忘録程度の雑感的なメモである。 【目次】 美幌博物館 北見圏北見文化センター 北見工業大学 ハッカ記念館 美幌博物館 美幌峠観光これは中の人が撮影した美幌峠からの屈斜路湖の中島の眺望 展示構成 常設展示は3つの展示室から構成されており、第1展示室「川とともに」、第…
標津線・根釧原野の開発・戦後パイロットファームを学ぶために訪問した雑感メモ。 鉄道記念館は標津線が根釧原野の開発に与えた影響を学ぶことができる。 郷土資料館は考古・自然・生活・農業・水産・北方の第1展示室と写真中心の第2展示室がある。 加賀家とは商い場に仕えた一族で特に伝蔵がアイヌ理解に長じ多くの文書を残した。 鉄道記念館 標津線が根釧原野開拓に果たした役割西春別にあり廃線となった標津線の記録を展示している施設。館内はとても寒い。標津線は標茶から東進する路線と厚床から北進する路線が中標津で交わり根室標津に至るという路線である。一番印象的だったのは標津線は開拓路線なので黒字になるわけがないという…