根本陸夫

(スポーツ)
ねもとりくお

プロ野球選手・指導者。
通称「球界の寝業師」。
右投右打、ポジションは捕手。背番号は8→81番。

1926年11月20日生まれ。茨城県出身。
旧制日本大学第三中学校*1から日本大学専門部に進学。
その後法政大学に移転し、実業団チームの川崎コロムビアに進む。

1952年、恩師の藤田省三に招聘され、近鉄パールスに入団。
関根潤三とバッテリーを組むが、選手としては出場機会に恵まれなかった。
1957年、現役引退。

1962年、近鉄バファローズのコーチに就任。

1967年、盟友関根、子飼いの上田利治・広岡達朗・小森光生と共に広島東洋カープのコーチに就任。

1968年、監督に昇格。
松田耕平の庇護の下、数多くの選手を育て、後のカープの黄金時代の礎を築いた。
1972年、フロント入り。

1978年、クラウンライターライオンズの監督に就任。
1979年、引き続き西武ライオンズ初代監督に就任。

1982年、監督を広岡に禅譲し、フロント入り。
堤義明の庇護の下、1992年まで球団管理部長として多くの選手を見出し、西武ライオンズの黄金時代を支えた。
また、台湾プロ野球とのパイプを繋げ、アジアシリーズの基礎を作り上げた。


1993年、中内功の要請で、福岡ドームの完成を機に、福岡ダイエーホークスの3代目監督に就任。
当時、67歳での監督就任は史上最年長*2であった。

1994年、世紀のトレードを敢行、FAを積極的に活用し、豪快な采配でチームの躍進に貢献。

1995年、フロント入り、王貞治を監督として招聘。
かつての教え子をFAで呼び寄せ、アマチュア野球界から多くの名選手を入団させ、後に強豪となるチームを形成した。

1999年、球団社長に就任。
同年4月30日、逝去。享年72。
同日からの3連戦では、ライオンズ・ホークス両球団が喪章をつけて戦った。

1999年、福岡ダイエーホークスが初優勝・日本一。ベンチには遺影が掲げられた。


各球団で裏方を中心とするチームスタッフを形成。
また木庭教浦田直治植上健治石川晃などを重用し、スカウト・スコアラーの整備に尽力した。
プロ経験のなかった岡田悦哉有本義明をコーチとして招聘したことでも知られる。

カープ、ライオンズ、ホークスの各球団には、現在も根本遺産の影響力が強い。
監督としてただチームの采配を振るうだけでなく、自ら球団経営・チーム編成にも関わり、
現在で言うGM(ゼネラルマネージャー)に近い存在で重用された。

2001年、野球殿堂入り。

*1:現在の日本大学第三高校(日大三高校)。

*2:2005年、仰木彬が70歳で就任し最年長に。

このタグの解説についてこの解説文は、すでに終了したサービス「はてなキーワード」内で有志のユーザーが作成・編集した内容に基づいています。その正確性や網羅性をはてなが保証するものではありません。問題のある記述を発見した場合には、お問い合わせフォームよりご連絡ください。

関連ブログ