中国後漢の人物(142年 - 225年)。弘農郡華陰県の人。字(あざな)は文先。楊震の曾孫。楊秉の孫。楊賜の子。楊修の父。妻は袁術の妹。『後漢書』に伝がある。
楊震以来、「四世三公」を称された名族出身で、彼自身も後漢朝において高官に上った。歴史家としても知られ、馬日磾・盧植・蔡邕と共に後漢の歴史書を編纂した。
董卓が政権を握り、長安への遷都を提案すると、同じく三公であった黃琬らと共にこれに反対したが、董卓の弾圧にあって免職となった。
その後、まもなく官職に復帰し、王允による董卓の暗殺後も朝廷にあって献帝に仕えた。王允を倒して朝廷の実権を握った李傕・郭汜が195年に内紛を起こすと、他の多くの朝臣と共に献帝を擁して弘農に逃れ、将軍の楊奉や韓暹、董承らに守備されて、李傕らの追撃にさらされながらさらに旧都の洛陽を目指して東上した。
献帝を擁立した曹操に憎まれ、獄に下されたが孔融や荀彧(荀イク)の取り成しにより助命された。しばらくして政界から完全に引退した。
子の楊修が曹操に仕えていたが、嫌疑を受けて殺害されるなど、不遇な晩年を送った。禅譲により後漢が滅亡し魏(曹魏)が成立すると、魏の文帝(曹丕)から三公として召しだされそうになるが辞退し、「徳高き老人」として顕彰を受けた。