昭和63年(1988)放送のNHK大河ドラマ第27作。
甲斐を統一した守護武田信虎の嫡男として生まれる。1541年(天文10)に信虎を追放し、甲斐武田家の当主となる。翌天文11年からの諏訪併合を皮切りに信濃国へ侵攻し、小笠原長時や村上義清と戦い信濃を領国化する。駿河国の今川義元、相模国の北条氏康と甲相駿三国同盟を結び、信濃北部の川中島の合戦において越後国の長尾景虎(上杉謙信)と争った。
また、内政面においても検地・棟別諸役の整備を行い領国支配を強化し、分国法である『甲州法度之次第』を定めた。また、金山経営や治水にも着手したといわれ、信玄堤は信玄の頃に一応の完成をみたという。
1562年(永禄4年)以降には方針を転換し、桶狭間の戦いで義元を討ち果たした尾張国の織田信長に接近する。将軍足利義昭を奉じて上洛した信長と同盟を結び、1565年(永禄8年)には嫡男の武田義信を廃嫡する。1568年(永禄11年)には三国同盟を破棄して今川領へ侵攻する。今川領侵攻後は信長の同盟国である三河の徳川家康や北条氏康と敵対し窮地に陥るが信長・将軍義昭を通じた外交ルートで窮地を脱する。
元亀年間には信長・義昭の対立に伴い義昭の迎合した信長包囲網に加わり、三方が原の戦いで徳川家康を撃破し圧勝するが、上洛の意図があったとも言われる「西上作戦」の途上、信州・駒場にて死去。
江戸時代には『甲陽軍鑑』を通じて信玄の知名度は高く、『甲陽軍鑑』では上杉謙信との永禄4年の第4次合戦では甲越双方が総力戦を繰り広げ、信玄・謙信が直接一騎打ちを繰り広げたとする逸話を記し、浮世絵などでもその様子が描かれた。また、信玄を中心とする家臣団は武田二十四将図として群像が描かれ、広い知名度がある。
現在でも一般的知名度も高く、地元山梨県では郷土の偉人として顕彰されている。
武田信玄:芳声天下に伝わり仁道寰中に鳴る (ミネルヴァ日本評伝選)