清和源氏の一流。源満仲の三男の源頼信を祖とし、河内国(現在の大阪府の一部)に根拠地を置いていた。鎌倉幕府の初代征夷大将軍の源頼朝は河内源氏の源義朝の三男である。 一般的に武士で「源氏」という場合、この河内源氏の系統を指す。また、「平家」と称される伊勢平氏と併称される場合には「源家」という呼称も古くは用いられていた。
鎌倉殿の13人 史実だから仕方ないですが今回で三代将軍実朝が甥の公暁に暗殺されてしまい、これで河内源氏の嫡流は滅んでしまいました。実朝暗殺から公暁の撲殺まで伝わっている史実と描かれ方は違いますが、ドラマなので細かいところの重箱の隅をつつくのはあまり意味がありません。そもそも鎌倉時代の「吾妻鏡」も「愚管抄」も政治的立場の違う人間が書いたものであり100%信用できるものともいえないからです。 いずれにせよ、三代将軍の源実朝が甥の公暁に殺されたこと。そして暗殺した公暁も三浦氏(実際には三浦義村ではなく家臣の長尾定景(子孫は上杉謙信になります)が討ち取ります)に撲殺されたことは史実として間違いありませ…
月が替わり八月になった。 夏も盛りというわけで、この暑さも当然なのかもしれない。 しかし、夕方4時すぎ、クルマの車外温度計が36度をしめしているのは、いくらなんでもやりすぎだと感じていた。 我慢の限界をこえていた…。 運転中ずっと理不尽だ、無茶苦茶だ、文句を言ってやるなどと、そんな言葉がつぎつぎとあたまに浮かんでは消えていった。 カラダが熱っぽく、さきほどから視界もぼやけ始めてきたようだった。まさか、いま猛威を振るっているウイルスの症状なのか。 カップホルダーのアイスコーヒーに手をのばす。 エアコンの液晶表示が33度になっていた。 どうして…。 いつ手が触れたんだ。 コーヒーを置いたときだろう…
2021年7月31日 朝7時出発。太陽はまだ低く、長い影を作るも、すでにジリジリとくる暑さ。近鉄上ノ太子駅に1時間弱で到着。ここから歴史探訪スタート。 地理的には羽曳野市になるが、まずは河内源氏の氏神である壷井八幡宮から。つか、河内源氏ってなんだ?
後醍醐天皇に従って、実質的に鎌倉幕府を滅亡させたのは新田義貞です。義貞は上野国新田庄出身の河内源氏で、頼朝や義仲と同じく八幡太郎義家の子孫になります。 【稲村ヶ崎】 元弘三年(1333)、義貞は小手指河原(所沢市)・分倍河原(府中市)で幕府軍を破り、鎌倉へ向かいます。しかし、三方を山、一方を海で守られた鎌倉に攻め入るのは困難です。義貞は極楽寺の切り通しに向かいますが、その手前にあるのが稲村ヶ崎です。 【稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地】 稲村ヶ崎の狭い砂浜の道は障害物で塞がれており、海上には敵の船が待ち構えています。義貞は海に向かって龍神に祈り、黄金作りの太刀を海中に投げ入れると、見る見る潮が引いて…
「酒呑童子絵巻」 根津美術館所蔵 というわけで後半です。前編を読んでくださった方、ありがとうございます。 前編ではもともと武士とは「破邪/辟邪の力」を朝廷から期待されており、その力でもって災厄やケガレが朝廷に降りかかるのを防ぐ役割を担っていた。酒呑童子伝説で有名な源頼光とその子孫が代々任じられていた「大内守護」という役割においても現代的な警備員や近衛兵とは違い呪術的な力も求められており、それこそ本来の意味での「武力」であった...しかしそれも鵺退治でおなじみの源頼政が打倒平家に挙兵して敗死したのを機に「武力」といえば「破邪/辟邪」ではなく現在の我々が思い浮かべる暴力的な力が主流になっていく..…
勝川春亭「頼光朝臣酒呑童子オ退治之図」 先月末、京都府福知山市にある大江山へ鬼退治へ出かけてきました。 当日の天気予報は朝方まで曇り、午前の半ば過ぎくらいから曇りになる...だったのですが、朝から降り続けていた雨は止む気配はおろかどんどん強まり、有名な鬼嶽稲荷神社に到着するころには暴風&雪に見舞われる始末。 雲海が見られることで知られる当神社前の絶景スポットでは霧&もやで何も見えず(というか強風にあおられて立ってられなかった)、もう少し先に進めば大江山の主峰、仙丈ヶ岳まで(&酒呑童子が住んでいたと言われる「鬼の洞窟」も)行くことができたのですが、「さすがにこれ以上はちょっとマズい」と判断して志…
アフィリエイト広告を利用しています 源義弘:平安時代の武士と政治家 生涯 生誕: 不詳 没: 元暦元年(1184年)5月4日 家柄: 河内源氏 父: 源為義 母: 六条大夫重俊の娘 功績 鎌倉時代の武将: 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍。 志田三郎先生: 別名としても知られる。 エピソード 常陸南部の抵抗: 関東に下向し、信太荘を開墾。志田三郎先生としても知られる。 頼朝との戦い: 鎌倉攻撃を試みるが敗北。最終的に斬首される。 志田義広は、源平の争乱時代に活躍した武将であり、その生涯は波乱に満ちています。 NHK 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」THE BOOK【電子書籍】[ …
「石川」という姓は、日本の地名に由来することが多いです。 例えば、大阪府羽曳野市付近の旧石川郡や福島県石川郡石川町など、地名が姓として用いられた例があります。 また、石川姓は古代の大族である蘇我氏の一族にも見られ、蘇我倉山田石川麻呂などの人物が知られています。さらに、清和源氏義家流の河内源氏が石川氏を名乗ったことから始まる家系もあります。 石川姓の人々は全国に分布しており、特に愛知県、東京都、神奈川県などで多く見られます。 ちなみに石川県は、加賀地方にあった石川郡から来ています。さらに、石川郡の名前は、県内で最大の河川である手取川の古名「石川」に由来しています。明治5年(1872年)に金沢県庁…
鎌倉時代の出来事を年表にまとめた。 鎌倉時代 は 日本の歴史の時代区分の一つである。 前は 平安時代 後は 室町時代 鎌倉時代の概要 鎌倉時代の政治 鎌倉時代の文化 随筆 軍記物語 歌集 彫刻 鎌倉時代の出来事 1160年 (平治元年) 源頼朝 伊豆国に 配流 1180年 (治承4年) 源頼朝 挙兵 1180年 (治承4年) 源頼朝 鶴岡八幡宮 を遷す 1183年 (寿永2年) 後鳥羽天皇 即位 1183年(寿永2年) 寿永二年十月宣旨 1184年 (元暦元年) 源頼朝 勝長寿院 建立 1185年(文治元年) 文治の勅許 1189年(文治5年) 奥州合戦 1189年 (文治5年) 北条時政 願…
本日は大阪を巡ります。 天気予報どおり雨かぁ(^^; まずは堺市にある大鳥神社へやってきました。 参拝して御朱印いただきました(^^) 大阪市へ移動、住吉大社です(^^) 四から一へ順に参拝。 初辰まいりというのぼりがたくさん立ってました。 本殿では結婚式が行われていました。 おめでたい時にこれましたね(^^) 御朱印もいただきました。 次に向かったのは坐摩神社(いかすりじんじゃ)です。 これも・・読めない(^^; ビルの真ん中にある一ノ宮、参拝して御朱印いただきました。 少し歩いて道頓堀の方へ行ってみます。 心斎橋筋を道頓堀まで。 外国人がたくさんいます(^^) お腹も空いたので串かつだるま…
平安時代について断片的な知識しかなかったので、 平安時代の出来事を年表にまとめた。 参考 平安前期 平安中期 平安後期 平安時代の文化 悪霊と祈祷の時代 平安時代の出来事 平安前期の出来事 781年 (天応元年) 桓武天皇 即位 794年 (延暦13年) 平安京に遷都 800年(延暦19年) 富士山が噴火 (延暦の大噴火) (805年 (延暦24年) 最澄 が 比叡山延暦寺 を創建 806年 (大同元年) 平城天皇 即位 806年 (大同元年) 空海が 高野山金剛峯寺 を創建 807年 (大同2年) 伊予親王の変 809年 (大同4年)(809年) 嵯峨天皇 即位 810年 (大同5年) 薬子…
日本三大八幡宮にも数えられる神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮が「神社本庁」からの離脱を決定 鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱する理由は? 鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に伴うデメリットは? 鶴岡八幡宮の神社本庁離脱が日本に及ぼす影響とは? 鶴岡八幡宮の創建から神社本庁への所属までの歴史 日本三大八幡宮にも数えられる神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮が「神社本庁」からの離脱を決定 神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮は、日本三大八幡宮の一つとして知られています。しかし、この鶴岡八幡宮が、全国各地の神社を束ねる宗教法人「神社本庁」からの離脱を決定しました。具体的な理由は明記されていませんが、この離脱には何らかの背景があるようで…
アフィリエイト広告を利用しています # 源義経とは?平家を滅ぼした英雄の悲劇的な生涯 こんにちは、今回は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将、源義経について紹介したいと思います。源義経は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝の異母弟であり、平家との戦いで数々の武勲を挙げましたが、その後、兄と対立して追われる身となり、最期は奥州で自刃しました。その生涯は、多くの伝説や物語を生み出し、後世の人々の心をとらえてきました。では、源義経とはどんな人物だったのでしょうか。その生涯を簡単に振り返ってみましょう。 ## 幼少期~鞍馬寺での修行 源義経は、平治元年(1159年)に京都で生まれました。父は河内…
旭将軍。その異名の由来は、太陽にように東から来訪した将軍やら、破格の勢いで上洛を果たしたこと、など説がいろいろある様です。 旭将軍こと木曾義仲は源氏の出身で、源義経や頼朝とは親戚関係にありますが、敵対することになります。どうして義仲は木曽を名乗ることになったのか? どうして義経と敵対することになったのか? 今回は木曾義仲の生涯を簡単に解説できたらと思います。 生涯 生まれ 挙兵 倶利伽羅峠の戦い 京 頼朝との戦い 生涯 生まれ 木曾義仲は1154年に武蔵國の秩父(埼玉県秩父市)で生まれたとされています。幼名は駒王丸(こまおうまる)。父である源義賢(よしたか)は河内源氏の出身で、帯刀舎人(たちは…
戦国時代の武田氏が本拠とした居館。武田氏館ともいう。 武田氏は、清和源氏の本流河内源氏の流れである。永承6年(1051)から始まる前九年の役で活躍した源頼義の三男に新羅三郎義光がおり、その子義清が常陸国那珂郡武田郷を領して武田冠者と呼ばれたことに始まる。 義清は、子清光の横暴が原因で後に甲斐国に配流されたが、父祖が甲斐守に任官していたこともあり、馴染みのある甲斐で勢力を拡げ、その子孫は甲斐源氏となった。ちなみに、義清の叔父は源氏惣領である八幡太郎義家であり、兄には常陸に残って佐竹氏の祖となった義業がいる。 甲斐に入った義清は、清光に逸見荘を任せ、清光は逸見冠者を名乗った。清光の子には、双子とい…
序文・最期の奉公 堀口尚次 源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義(よし)賢(かた)の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍〈旭将軍とも〉と呼ばれている。 以仁王(もちひとおう)〈後白河天皇の第三皇子〉の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮(ほくろくのみや)として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽…
平賀城遠景 平賀の地は、新羅三郎義光の四男盛義が、平賀郷を本拠として平賀冠者と呼ばれたため、平賀氏の本貫地となった。 平賀城は、築城年代は不明ながら、その盛義の子義信によって築かれたという伝承を持つ。 義信は、前述のように河内源氏の嫡流に近い血筋で、惣領の源義朝に従って平治元年(1160.12)12月の平治の乱に参加し、敗れて京を落ち延びる義朝に従う7人の武将のひとりとなっている。 この落去の際、義朝は長田忠致に裏切られて討たれ、その子頼朝は落伍して捕らえられているが、義信は信濃へ落ち延びることに成功した。とは言え、これ以降は平家一門が全盛となったため、この地で逼塞していたと見られる。 後の源…
ランキング参加中ゲームメモ 本ページで紹介する作品は、18歳未満の方は視聴できない内容を含んでいます。しかし本ページにおいては、18歳未満の方でも安心して閲覧できるように配慮しております。是非、本ページでお楽しみいただき、全年齢版の発売をお待ちいただくか、18歳以上になった際にご購入いただけますと幸いです。 タイトル:八剱伝 原画 :榊水夏 , 宍戸くろう(宍戸九郎) シナリオ:海水塩湖 音楽 :LongsLeaper 日本の戦国時代を背景とした物語 それを4視点で描く感じ 単純仕事量えぐいやんけ シナリオ一人でやってんのエぐ 体験版レビューです この辺のキャラを目当てにプレイしとったけど こ…