崩壊の過程としての生を肯定すること、それは何よりも「老いてあること」或いは「老いつつあること」を肯定するに他ならない。言うまでもなく、「老い」とは可視的な、そして内在的な経験としてある不可避な崩壊の過程そのものだからである。「老い」は死への敗北の予兆などではない。「老い」は純粋化された生の過程そのものなのである。老いは生への全面的肯定そのものなのである。生への肯定は老いをも含めて肯定する優しさではなく、厳密に言えば、老いそのものを肯定する身振りなのである。と言うのも、たぶん、生とは「老いの過程」に他ならないからである(丹生谷貴志, 1996『死体は窓から投げ捨てよ』p.21.) 「増えすぎた老…