泗川の戦い(しせんのたたかい)
文禄・慶長の役における合戦の1つ。1598年10月、朝鮮半島の泗川で島津義弘率いる島津軍7千が、董一元率いる数万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退させた戦い。数十倍もの圧倒的戦力差があるにも関わらず島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られ、義弘は鬼石曼子と呼ばれ明で恐れられたといわれるが、明軍の数は3万7千から20万と諸説あり、明軍の死者も数千から8万と開きがある。
島津義弘(しまづよしひろ)の生涯を年表風にまとめてみた。……なかなかのボリュームに。とにかく戦いが多すぎるのである。 島津義弘は、島津家15代当主の島津貴久(たかひさ)の次男である。16代当主の島津義久は兄にあたる。父と兄のもとで、島津家の軍事面の主力を担った。 16世紀半ばから島津家は薩摩国(鹿児島県の西側)より勢力を広げていく。そして大隅国・日向国をも制圧。勢いはとまらず、九州全土を覆っていく。その中で、島津義弘の戦場での活躍が光る。 豊臣政権下に入ったあとも、島津義弘は戦場で凄みを見せる。「泗川の戦い」や「関ヶ原の戦い」では絶望的な状況を突破した。 島津義弘の戦いぶりは泥臭い感じがする。…
九州を席巻しつつあった島津氏だが、天正15年(1587年)5月に豊臣秀吉に屈服した。これ以降の島津義弘(しまづよしひろ)の戦いは、豊臣政権下でのものとなる。 天正15年8月から「島津義弘」と名を改める。それまでは「島津義珍(よしまさ)」と名乗っていた。島津義弘の「強さ」のイメージは、老境にはいったこの頃以降の戦いぶりからきているようにも思う。朝鮮の泗川(サチョン)の戦いのときは63歳。関ヶ原の戦いは65歳での参戦だった。 その戦場での凄みは、経験によるところが大きいと思う。なんといっても、踏んできた場数が多いのである。若い頃から厳しい戦場に身を投じ、そして生き抜いてきた。その中で「戦場での感覚…
鹿児島県姶良市鍋倉にある「島津義弘居館跡(帖佐御屋地跡)」に行ってきた。島津義弘(しまづよしひろは)は文禄4年12月(1596年1月か)から慶長11年(1606年)にかけてこの地を居館とした。「帖佐館(ちょうさやかた)」「帖佐御治所(ちょうさごちしょ)」「帖佐御屋地(ちょうさおやじ)」などの呼称がある。 当時の石垣が残る 島津義弘の御治所 島津義弘の看経所 古帖佐焼宇都窯跡 膝跪騂の墓 当時の石垣が残る 県道42号から帖佐小学校横の道に入ってちょっと行くと、鳥居が見える。ここが帖佐館跡である。現在、館跡には稲荷神社が鎮座。鳥居に向かって左側へ行くと花園寺(かえんじ)跡公園の駐車場がある。こちら…
率直な昭和天皇の発言が記録された掛け値なしの第一級史料です。田島と昭和天皇のやりとりからは、占領期から講和後初期にかけて「象徴天皇」が規定されていく模様が分かる意味で貴重です。https://t.co/4Q7YPhG6oR— 井上正也 INOUE Masaya (@INOUE_Masaya) August 20, 2022 もう少し踏み込むと、昭和天皇が政治問題をめぐって自分の考えを吉田茂に伝えようとするのを、田島は確かに止めていますが、天皇の意向そのものは吉田に伝えている。田島は天皇の言動を憲法規定の枠に留める一方で、天皇が政治的意思を間接的に政治家に伝える戦後の慣習を作った感じがします。—…
戦国時代の島津氏は「強い」というイメージを持たれている。関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」のほか、「木崎原の戦い」「耳川の戦い」「沖田畷の戦い」「泗川の戦い」などでの劇的な勝利がよく知られている。映画・ドラマ・小説・漫画なんかでも、このあたりがクローズアップされる。また、ゲーム作品でも「島津は強い」という設定になっていることがほとんどである。ゲームから歴史に興味を持つ人は多く、こちらの影響もけっこうあるんじゃないかと思われる。 その一方で、天正15年(1587年)に豊臣政権の傘下に入ってからの島津氏はグダグダである。島津義久(しまづよしひさ、1533年~1611年)・島津義弘(しまづよしひろ、1…