戦前のものと思われる旧町名と戦後の旧町名が、二つ並んでいた。このようなものはあまり見かけない。貴重なツーショットだ。 発見日 2022年5月9日 発見場所 東京都台東区松が谷一丁目 右側は戦前の旧「淺草區北松山町」時代のものと思われる。左側は戦後の旧「台東区浅草北松山町」のもの。 木製なので、読み取りにくいが、まだましな方だ。 いくつか未紹介の木製のものがあるのだが、自分では読み取れず、紹介してもいいのか迷っているものがある。自分で自信をもって読み取れるようになったら紹介しようと思っている。本当に老眼は不便だ。老眼は治るものではないし、読み取れる日はいつか来るのだろうか・・・。 昨日(2022…
昨日の続き。 ・「江戸と東京」第三卷第一號 昭和12年(1937)1月1日発行 38~39頁、馬上義太郎「淺草から消えた名物」は、前半、39頁上段4行めまでが「◯ 花 屋 敷」で、後半が「◯ 十 二 階」である。見出しは3字下げ。 そろ〳〵大東京にも十二階を知らざ/る住人の數が増加して來たやうである/が、今思ひ出しても、全く、奇妙きて/れつなものを健てたものだわい。あの/建物は、假りに關東大震災によつて瓦/崩しなかつたとしても、一九三七年の/今頃まで帝都の眞ん中に(たとへそれ/が淺草であらうと)突つ立つてゐやう/などとは考へられない。十二階は、吾/々などの物心のつく以前から建つてゐ/たのだが、…
はじめに この記事を、100年前、我が国の有史史上最悪とも呼ばれる自然災害に直面した、全ての人々に捧げます。 前回の記事は横網町公園の歴史について紹介していきました。ここからは、横網町公園の整備方針に深い関係がある関東大震災に焦点を当てたいと思います。 今までの記事で述べた通り、横網町公園が整備される前、被服廠跡と呼ばれた更地に避難していた約38,000人もの人々が火災により亡くなっています。なぜこれほどまでに甚大な被害となってしまったのか、調べられる範囲で確認していきたいと思います。